恋愛
制服のリボンを直しながら、真弓は校舎を見上げている。
三年間が、もうすぐ、終わろうとしている。
人は、出来事の全体ではなく、最後の瞬間で、その時間を、覚えている。
長い旅行の最後に、トラブルがあった。トラブルがあるまでの数日は、楽しかったはずだ。でも、思い出として残るのは、最後のトラブルのほうだ。最後で、すべての記憶が、塗り替えられる。
長い仕事のプロジェクトが、終わった。プロジェクトの中盤は、辛かった。でも、最後にうまくいけば、辛かった中盤の記憶も、いい思い出に、変わる。最後で、全体の評価が、決まる。
長い恋愛が、終わった。恋愛のあいだ、楽しかった瞬間も、辛かった瞬間も、両方あった。でも、別れの瞬間が、悲しかったら、その恋愛は、悲しい恋愛として、記憶に、残る。別れが、穏やかだったら、その恋愛は、穏やかな恋愛として、記憶に、残る。
これが、ピーク・エンドの法則だ。
人の脳は、長い時間の出来事を、すべて、覚えていられない。だから、ピーク(最高点や最低点)と、エンド(最後の瞬間)を、選んで、記憶する。それ以外の部分は、薄れていく。
真弓と誠の三年間は、長かった。
その三年間に、ピークとエンドが、いくつか、あった。
第3話の模試の結果。第8話の白い封筒。第9話の衝突。これらは、三年間のピークだった。
でも、エンドは、まだ、来ていなかった。
エンドは、卒業式の日に、来る。
そのエンドが、二人の三年間を、どんな色に、塗り替えるか。
それは、卒業式の日まで、誰にも、分からなかった。
真弓も、誠も、その日のことを、後で、何度も、思い出すことになる。
思い出すたびに、二人の三年間の色は、最後の瞬間の色で、塗り替えられる。
塗り替えられた色を、二人は、十八年、抱えていく。
十八年抱えた色が、二人の人生を、それぞれ、別の場所に、連れていく。
三月の卒業式の朝。
真弓は、いつもより、早く家を出た。
校門の前に着くと、まだ、ほとんどの生徒は、来ていなかった。
真弓は、しばらく、校門の前に立って、校舎を見上げていた。
三年間、毎日、この校門を、くぐっていた。
くぐる回数を、真弓は、何度か、数えてみた。だいたい、千回くらいだろうと、計算した。
千回くぐった校門を、今日、最後に、くぐることになる。
その「最後」を、真弓は、自分の中で、確かめていた。
確かめながら、真弓は、自分の制服のリボンを、直した。
三年間、毎朝、結んできたリボンだった。
このリボンも、今日が、最後だった。
真弓は、リボンの結び目を、いつもより、丁寧に、直した。
そして、深呼吸を、一回、した。
真弓は、校門を、くぐった。
くぐった瞬間、真弓は、自分の中で、ある音を、聞いた。
パチン、と何かが、終わる音だった。
それは、悲しい音では、なかった。
ただ、終わる音だった。
真弓は、その音を、自分の中で、確認した。
確認してから、校舎に、入った。
校舎の中は、いつもと同じだった。
でも、いつもと違って、その日の校舎は、卒業生のための場所だった。
真弓は、自分のクラスに、向かった。
向かう途中、廊下で、誠とすれ違った。
誠も、いつもより、早く来ていた。
二人は、お互いを見て、軽く、頭を下げた。
でも、その日は、いつもと、少しだけ、違っていた。
真弓が、誠に、声をかけた。
真弓は、廊下を、歩きながら、思った。
――今、誠を、屋上に呼んだ。
呼んだ理由を、真弓は、自分でも、よく分かっていなかった。
第8話の手紙のところで、真弓は、こう書いていた。
「最後の日に、また、声をかけさせてください」
その手紙は、誠には、渡らなかった。
でも、真弓は、自分が書いた約束を、自分の中で、覚えていた。
覚えている約束を、果たさないわけには、いかなかった。
果たすために、真弓は、誠を、屋上に、呼んだ。
果たしたあとに、何が起きるかは、真弓には、分からなかった。
でも、果たすことだけは、決めていた。
真弓は、自分のクラスのドアを、開けた。
クラスの中は、まだ、ほとんど、誰もいなかった。
真弓は、自分の席に、座った。
座って、机の上に、手を置いた。
三年間、毎日、座ってきた、机だった。
机の表面には、消えないペンの跡や、消しゴムのカスが、残っていた。
真弓は、その跡を、指で、撫でた。
撫でながら、思った。
――この机も、今日が、最後。
すべてのものが、最後だった。
最後だらけの一日が、これから、始まる。
真弓は、深く、息を、吸った。
そして、ゆっくりと、吐いた。
同じ朝、誠も、自分のクラスに、向かっていた。
真弓に、屋上で待っている、と言われたあとで、誠は、自分のノートのことを、思い出していた。
誠の鞄の中には、観察ノートが、入っていた。
卒業式の日に、ノートを学校に持ってくる必要は、なかった。
でも、誠は、なんとなく、ノートを、持ってきていた。
持ってきた理由を、誠は、自分でも、よく分からなかった。
分からないまま、誠は、自分の席に、座った。
座って、ノートを、机の上に、出した。
そして、真弓のページを、開いた。
真弓のページには、第11話で書いた最後の文字が、残っていた。
「俺は、真弓のことを、ほとんど、知らなかった」
「知らなかったことが、最大の、罪だった」
誠は、その文字を、しばらく、見ていた。
見ていると、誠の中で、ある問いが、立ち上がってきた。
――今日、真弓に、屋上で、何を、言えばいいのか。
誠は、その問いに、答えを、持っていなかった。
これまでの誠なら、論理的に、答えを、組み立てていた。
「最後の日にふさわしい言葉」を、合理的に、選んでいた。
でも、第11話で、誠は、自分の論理の限界を、認めていた。
論理で組み立てた言葉は、真弓には、届かない。
届く言葉は、論理の外側に、あった。
論理の外側にある言葉を、誠は、まだ、持っていなかった。
誠は、しばらく、ノートのページを、見ていた。
見ていて、ある考えが、浮かんできた。
――真弓に、ノートを、見せたら、どうだろうか。
誠が、ノートに書いてきた、真弓のページ。
そのページを、真弓に、見せる。
そうすれば、真弓は、誠が、自分のことを、どんなふうに、観察してきたかを、知ることが、できる。
知ることが、よいことかどうか、誠には、分からなかった。
でも、見せることが、誠が、真弓に、できる、唯一の、誠実な行動かもしれなかった。
誠は、そのことを、考え続けていた。
考え続けているうちに、卒業式が、始まった。
誠と真弓は、別々のクラスの、別々の列に、座っている。
式辞を聞きながら、二人とも、別々の景色を、見ている。
卒業式は、いつもの式典と、同じだった。
校長先生の話。来賓の話。卒業証書の授与。卒業の歌。
真弓は、式の最中、特に、感慨深い気持ちには、ならなかった。
感慨深さを、感じる前に、真弓の中では、別のことが、回っていた。
式が終わったら、屋上に行く。
屋上で、誠と話す。
何を、話すか、真弓自身、決めていなかった。
でも、話さなければ、いけないことが、ある気が、していた。
その「ある気がする」だけを、真弓は、頼りに、していた。
誠も、式の最中、自分のことを、考えていた。
誠の鞄の中に、ノートが、入っていた。
そのノートを、屋上に、持っていくべきか。
持っていって、真弓に、見せるべきか。
誠は、自分の中で、何度も、考えた。
考えて、結論は、出なかった。
結論が出ないまま、誠は、卒業証書を、受け取った。
卒業証書の重さを、誠は、手で、感じた。
三年間の重さが、そこに、あった。
でも、その重さは、誠が思っていたよりも、軽かった。
三年間は、紙一枚の重さで、まとめられていた。
誠は、その軽さに、軽く、驚いた。
驚きながら、誠は、自分の席に、戻った。
戻って、卒業証書を、机の上に、置いた。
置いてから、誠は、ノートを、もう一度、見た。
ノートと、卒業証書。
誠の三年間は、その二つに、まとめられていた。
卒業証書は、客観的な、三年間だった。
ノートは、主観的な、三年間だった。
客観的な三年間と、主観的な三年間は、まったく、違う重さを、持っていた。
誠は、その違いを、初めて、認識した。
認識して、誠は、決めた。
――屋上に、ノートを、持っていく。
持っていって、真弓に、見せる。
見せた結果が、どうなるかは、もう、考えなくていい。
結果を考えずに、行動することは、誠にとって、初めての経験だった。
初めての経験を、誠は、その日、する覚悟を、決めた。
覚悟は、震えていた。
でも、震えながら、誠は、その覚悟を、抱えた。
卒業式が終わって、式が解散になったあと、真弓は、校舎の屋上に、向かった。
屋上は、いつも通り、誰もいなかった。
真弓は、屋上の柵に、もたれた。
三月の風が、真弓の髪を、揺らした。
真弓は、しばらく、空を見ていた。
空は、薄い青色だった。雲が、ゆっくりと、流れていた。
真弓は、その雲を、見ながら、思った。
――誠は、来るかな。
来ない可能性も、あった。
誠は、最後の最後で、約束を、無視するかもしれない。
でも、真弓は、誠を、待つことに、決めていた。
待つことが、真弓の、最後の選択だった。
待っていると、屋上のドアが、開いた。
誠が、入ってきた。
誠は、鞄を、肩にかけていた。
鞄の中には、ノートが、入っていた。
真弓は、誠を見て、軽く、手を上げた。
誠は、真弓の隣に、来た。
並んで、柵に、もたれた。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
三月の風が、二人の髪を、揺らしていた。
誠は、真弓の言葉に、しばらく、答えられなかった。
「私の中にも、ずっと、あなたがいる」
真弓は、そう言った。
誠は、その言葉を、自分の中で、何度か、再生した。
再生するたびに、誠の中で、何かが、温かく、なった。
温かさの正体を、誠は、これまで、知らなかった。
でも、その日の屋上で、誠は、その温かさに、初めて、名前を、つけることが、できた。
その名前は、「繋がっている、という感覚」だった。
誠は、これまで、誰とも、繋がっていない、と思っていた。
誠の構造は、独立して、完結していた。
でも、真弓の言葉を聞いて、誠は、自分が、真弓と、繋がっていることを、知った。
繋がりは、誠が、認識していなかっただけで、ずっと、存在していた。
真弓も、誠との繋がりを、自分の中に、抱えていた。
二人とも、それを、抱えていたが、お互いに、伝えていなかった。
でも、卒業式の日、屋上で、初めて、伝え合った。
伝え合った瞬間、二人は、もう、別々の場所に、進む準備が、できていた。
進む準備ができた状態で、別々の場所に行くのは、孤独ではなかった。
繋がっている、という感覚を、抱えながら、進める。
誠は、自分の鞄の中の、ノートのことを、思い出した。
真弓に、見せようと、思っていた。
でも、見せる必要が、もう、ないように、思えた。
真弓は、誠が、自分のことを、どんなふうに観察してきたかを、知らなくても、いい。
知らないままでも、二人は、繋がっていた。
繋がっていることを、お互いに、分かっている。
分かっていることが、観察結果よりも、深い、本当の繋がりだった。
誠は、ノートを、鞄の中に、しまったままに、した。
しまったまま、誠は、真弓のほうを、見た。
真弓は、空を見ていた。
誠も、空を見た。
三月の空は、薄い青色で、雲が、ゆっくりと、流れていた。
二人は、しばらく、並んで、空を見ていた。
言葉は、もう、必要なかった。
言葉なしで、二人は、お互いの三年間を、確認し合っていた。
確認したあとで、真弓が、口を開いた。
誠は、真弓が降りていったあと、しばらく、屋上に、立っていた。
真弓の最後の言葉が、誠の中で、再生されていた。
「また、会おうね」
その言葉を、誠は、これまで、何度も、聞いたことがあった。
真弓が、別れ際に言う、定型の挨拶だった。
でも、その日の「また、会おうね」は、これまでの「また」とは、違っていた。
これまでの「また」は、明日も、学校で会える、という前提の上の、軽い挨拶だった。
でも、その日の「また」は、もう、明日、学校で会うことが、ない、という前提の上の、重い言葉だった。
「会えないかもしれない」のに「会おう」と、真弓は、言った。
これは、約束ではなかった。
これは、願いだった。
真弓の、誠への、最後の願いだった。
誠は、その願いを、自分の中で、抱えた。
抱えながら、誠は、空を、見た。
空は、相変わらず、薄い青色だった。
雲は、ゆっくりと、流れていた。
誠は、その雲を、しばらく、見ていた。
見ていると、誠の中で、ある思いが、湧き上がってきた。
――俺は、十八年後、真弓に、もう一度、会いたい。
「会いたい」という気持ちを、誠が、自分に対して、はっきりと認識したのは、これが、初めてだった。
これまでの誠は、「会いたい」という感情を、自分の中に、持っていなかった。
でも、屋上で、真弓の最後の言葉を聞いて、誠は、初めて、「会いたい」と、思った。
会えるかどうかは、分からなかった。
でも、会いたい、と思うこと自体が、誠にとって、新しい経験だった。
新しい経験を、誠は、自分の中に、迎え入れた。
迎え入れたあとで、誠は、屋上のドアに、向かった。
ドアに手をかけたとき、誠は、振り返って、もう一度、空を、見た。
空は、変わらず、薄い青色だった。
誠は、思った。
――この空の色を、覚えておこう。
覚えておけば、十八年後も、この日のことを、思い出すことができる。
思い出すことができれば、真弓に、また、会えるかもしれない。
会えなくても、思い出のなかで、真弓は、生きている。
生きている真弓を、誠は、これから、十八年、心の中で、抱えていく。
抱えていくことが、誠の、これからの、生き方になる。
誠は、ドアを開けた。
そして、階段を、降りていった。
真弓は、その頃、クラスメイトたちの輪の中にいた。笑いながら、何かを話していた。誠のことは、もう、考えていなかった。
真弓と誠は、それぞれの方向に、歩いていく。
二人とも、振り返らない。でも、お互いの存在を、感じている。
夕方、卒業式の最後の行事が、終わった。
生徒たちが、校門の前で、写真を撮ったり、最後の挨拶を、交わしたりしていた。
真弓も、自分のグループの友達と、写真を撮った。
笑顔で、写真に、写った。
笑顔は、本物だった。
三年間の友達と、別れることは、悲しかった。
でも、それは、悲しいだけの悲しさでは、なかった。
三年間、楽しかったから、悲しい。
悲しさの裏側に、楽しさがあった。
真弓は、その複雑さを、笑顔のなかに、込めた。
誠も、校門の前に、いた。
誠は、写真を、撮らなかった。
誰とも、最後の挨拶を、交わさなかった。
誠は、ただ、校門を、出て、家に向かう、駅のほうに、歩き出した。
歩きながら、誠は、後ろを、振り返らなかった。
振り返ると、真弓のことを、もう一度、見たくなる気が、した。
もう一度見たら、また、何かを、言いたくなる気が、した。
でも、もう、言うべきことは、屋上で、すべて、言ってしまった気が、した。
これ以上、何かを言うのは、屋上の最後の瞬間を、上書きすることに、なる。
誠は、屋上の最後の瞬間を、上書きしたくなかった。
「また、会おうね」
真弓のその言葉を、誠は、これからの十八年、最後の言葉として、抱えていきたかった。
抱えていくために、誠は、振り返らなかった。
真弓も、校門で、写真を撮ったあと、自分の家のほうに、歩き出した。
真弓も、振り返らなかった。
振り返ると、誠を、探したくなる気が、した。
探して、見つけたら、また、何かを、言いたくなる気が、した。
でも、もう、言うべきことは、屋上で、すべて、言ってしまった気が、した。
これ以上、何かを言うのは、「また、会おうね」を、上書きすることに、なる。
真弓も、その瞬間を、上書きしたくなかった。
二人は、別々の方向に、歩いた。
歩きながら、二人とも、お互いの存在を、感じていた。
感じているが、振り返らない。
振り返らないことが、二人の、最後の、共通の選択だった。
共通の選択をしながら、二人は、別々の方向に、進んでいた。
これが、二人の、十七歳の終わり方だった。
悲しい終わり方では、なかった。
静かな、終わり方だった。
静かな終わり方は、二人の三年間を、静かな三年間として、塗り替えた。
三年間のあいだに、たくさんのピークがあった。
第3話の、模試の結果。第8話の、白い封筒。第9話の、教室の衝突。
これらのピークは、もう、塗り替えられていた。
塗り替えたのは、屋上での「また、会おうね」だった。
エンドの瞬間が、ピークの色を、変えた。
ピーク・エンドの法則は、二人の三年間を、最後の瞬間で、定義した。
定義された三年間は、二人の中で、これからの十八年、変わらない。
変わらない三年間を、二人は、抱えていく。
抱えながら、別々の人生を、生きていく。
三年間という、長い時間の総量がある。その時間の中で、たくさんの出来事が、あった。楽しかった瞬間、辛かった瞬間、何でもなかった瞬間。すべてが、三年間の中に、ある。
でも、人の脳は、それらを、すべて、覚えていられない。だから、引き算が、起きる。
三年間から、過程の細部を、引いていく。引いていくうちに、ピークと、エンドだけが、残る。残ったものが、人の中で、その時間の「記憶」に、なる。
誠と真弓の三年間も、引き算された。引かれた結果、残ったのは、屋上の最後の瞬間だった。「また、会おうね」。この一言が、二人の三年間を、定義した。
この一言の前に、たくさんの出来事が、あった。模試の結果。手紙。ノート。衝突。すれ違い。沈黙。これらは、すべて、引かれていく。薄れていく。消えてはいない。でも、引き算の結果には、含まれない。
余りとして、引かれた出来事のすべてが、二人の中に、残る。余りは、ピークとエンドのように、はっきりとは、思い出されない。でも、確かに、存在し続ける。
余りは、二人の人生の、土台になる。土台は、見えない。でも、土台がなければ、人生は、立たない。
ピークとエンドだけで、人生は、できていない。余りこそが、人生を、支えている。
引き算の結果に、騙されては、いけない。記憶に残らないからといって、無価値では、ない。記憶に残らない時間が、人を、作っている。
誠と真弓は、屋上の最後の瞬間を、抱えて、生きていく。でも、二人を、本当に、支えているのは、最後の瞬間ではない。三年間の、すべての細部だった。
細部は、忘れる。忘れても、消えない。消えないものが、二人の、これからの十八年を、生かしていく。
恋愛について、もう少し、書いておく。
誠と真弓の関係を、恋愛と呼ぶかどうかは、難しい。
真弓は、誠のことが、好きだった。
誠は、真弓のことを、好きだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
誠自身、自分の感情に、名前をつけられなかった。
名前のない感情は、恋愛と呼ぶのが、難しい。
でも、二人のあいだに、確かに、何かが、あった。
その「何か」は、友情とも、違っていた。
家族の愛とも、違っていた。
恋愛のような、恋愛ではないような、その中間の場所に、二人の関係は、あった。
名前のない関係は、形がないままで、続いた。
続いて、卒業の日に、終わった。
終わったあとで、二人は、それぞれの中で、その関係に、名前をつけ始める。
真弓は、自分の中で、誠への気持ちを「初恋」と呼ぶことに、決めた。
初恋は、実らないことが、多い。
実らない初恋は、別のかたちで、その人の人生を、支える。
真弓は、そのことを、十八年かけて、学ぶ。
誠は、自分の中で、真弓への気持ちに、名前を、つけられなかった。
つけられないまま、十八年、抱え続ける。
抱え続けたものが、十八年後、誠を、ノートを書き直す行為に、導く。
名前のない関係は、名前のある関係よりも、深く、長く、続くことがある。
名前がないからこそ、形を、変えながら、その人の中で、生き続ける。
形を変えるたびに、関係は、新しい意味を、持つ。
新しい意味は、その人の人生を、新しい場所に、連れていく。
あなたが、もし、誰かと、名前のない関係を、抱えているなら、その関係を、無理に、名前をつけようとしなくてもいい。
名前のないままで、その関係を、抱えていけばいい。
抱えていることが、いつか、あなたの人生の、土台になる。
名前があってもなくても、抱えているものが、本物だ。
本物を、抱えていけば、人生は、必ず、深くなる。
これが、真弓から、十八年後のあなたへの、九つ目のメッセージだ。
その日の夕方、真弓は、家に着いた。
真弓は、自分の部屋に入って、机の引き出しを、開けた。
引き出しの奥に、白い封筒が、入っていた。
真弓は、封筒に、軽く触れた。
触れて、思った。
――この手紙、もう、本物の、十七歳の証になった。
「証」は、もう、誰にも、見せない。
誰にも見せないことで、その「証」は、本当の意味で、自分のものになった。
真弓は、引き出しを、閉めた。
閉めて、窓の外を、見た。
夕焼けが、きれいだった。
真弓は、その夕焼けを、しばらく、見ていた。
見ていて、思った。
――今日は、もう、泣かない。
真弓は、決めた。
今日は、十七歳の最後の日だった。
十七歳の最後の日に、泣くのは、もったいない。
真弓は、夕焼けを、笑顔で、見送ることに、決めた。
笑顔で、見送りながら、真弓は、自分の十七歳に、別れを告げた。
十七歳の真弓は、確かに、終わっていた。
終わったあとに、十八歳の真弓が、始まる。
十八歳の真弓は、十七歳の真弓を、抱えながら、生きていく。
抱えながら、生きていくのが、これからの、生き方だった。
真弓は、その生き方を、夕焼けの中で、受け入れた。
受け入れたあとで、真弓は、白い封筒の入った引き出しに、もう一度、視線を向けた。
でも、開けなかった。
開けないことが、真弓の、その日の、最後の選択だった。
開けずに、閉じたままにしておく。
閉じたまま、抱えていく。
それが、真弓の、誠への、最後の応答だった。
応答は、誠には、届かなかった。
届かなかったが、真弓の中では、確かに、完了していた。
同じ夕方、誠も、家に着いた。
誠は、自分の部屋に入り、鞄から、ノートを取り出した。
ノートを、机の上に、置いた。
置いてから、誠は、しばらく、ノートを、見ていた。
屋上で、真弓に、見せなかったノートだった。
見せなかったことを、誠は、後悔していなかった。
むしろ、見せなかったことで、ノートは、誠自身のものに、なった。
真弓に見せるためのノートではなく、自分が、自分の三年間を、抱えるためのノートになった。
誠は、ノートを、閉じた。
閉じたあとで、誠は、机の引き出しを、開けた。
引き出しの中に、ノートを、しまった。
しまってから、誠は、引き出しを、閉じた。
ノートは、閉じた引き出しの中に、入った。
閉じた引き出しの中で、ノートは、十八年、眠ることになる。
十八年後、誠は、そのノートを、もう一度、開く。
開いたとき、誠は、十七歳の自分と、もう一度、向き合う。
でも、それは、まだ、先のことだった。
その日の誠は、ただ、引き出しを閉じた。
閉じて、窓の外を見た。
外は、夕焼けだった。
誠は、屋上で見た空の色を、思い出した。
薄い青色の空。
ゆっくり流れる雲。
真弓の「また、会おうね」。
誠は、その三つを、自分の中で、ひとつの記憶として、保存した。
保存した記憶は、これからの十八年、誠の中で、変わらずに、残る。
残ることを、誠は、そのときは、まだ、知らなかった。
知らないまま、誠は、ベッドに、横になった。
横になって、天井を、見た。
天井を見ながら、誠は、思った。
――また、会えるかもしれない。
その「かもしれない」を、誠は、抱えた。
抱えたまま、夜が、来た。
夜が来たとき、誠は、十八歳に、なっていた。
真弓も、十八歳に、なっていた。
二人の、十七歳の物語は、ここで、終わる。
これから、二人の、十八歳からの十八年の、物語が、始まる。
その十八年の物語を、誰が、書いていくのか。
それは、二人自身だった。
二人は、それぞれの場所で、それぞれの十八年を、書いていく。
書かれた十八年が、第13話で、もう一度、繋がる。
でも、それは、別の、新しい話だった。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・ピーク・エンドの法則 (Peak-End Rule)


