所有
ノートの背表紙に、誠の指が、軽く触れている。
そのノートを、捨てるべきか、誠は、迷っている。
手放したもののほうが、まだ手にしていたものより、価値があるように、感じられる。
これは、不思議な現象だ。
同じものを、まだ自分が持っているときと、手放したあとで、感じる価値が、違ってくる。手放したあとのほうが、価値が、高く感じられる。
たとえば、子どものころに使っていたおもちゃ。捨ててから、ふと、あれは大事なものだったと、思う。捨てる前は、要らないと思っていた。捨てた瞬間に、急に、価値が、上がる。
たとえば、別れた人。一緒にいたときには、わずらわしいと思っていた。別れたあとに、ふと、あの人は、自分にとって、大事な人だったと、気づく。
たとえば、卒業した学校。在学中は、早く卒業したいと思っていた。卒業した瞬間に、戻りたくなる。
これらは、すべて、同じ構造だ。
失ったものが、得られなくなることで、価値が、上がる。
これは、人間の脳の、一つの癖だ。
癖だから、止められない。
でも、癖だと知っていれば、その癖に、振り回されずに済む。
誠は、卒業式の三日前、その癖の中に、足を踏み入れた。
真弓も、同じ三日前、別の形で、その癖の中にいた。
二人とも、まだ、自分の癖を、認識していなかった。
認識する前に、卒業の日が、来た。
三月の中頃、卒業式まで、あと三日だった。
誠は、自分の机の上に、二冊のノートを、並べていた。
一冊は、誠が、ずっと使っていた、観察ノート。
もう一冊は、第10話以降、誠が新しく作った、「答えのない問い」のフォルダのノート。
誠は、その二冊を、しばらく、見ていた。
卒業したら、新しい高校に、入る。新しい高校では、新しいノートが、必要になる。
古いノートは、捨てるか、しまうか、どちらかだった。
誠は、捨てることを、考えた。
古いノートには、たくさんの観察結果が、詰まっていた。クラスメイトの観察。授業の記録。本を読んだときのメモ。そして、真弓のページ。
真弓のページは、誠の観察ノートの、ある一定の比率を、占めていた。
その比率を、誠は、自分でも、よく分かっていた。
真弓のページは、誠が、観察してきた中で、最も、長く続いた、観察対象だった。
でも、第9話で、真弓は、自分のことを、ノートから消してほしい、と言った。
消そうと思えば、ノートごと、捨てればよかった。
捨てれば、真弓のページも、消える。
誠は、ノートを、手に取った。
持ち上げた。
そして、ゴミ箱の上に、ノートを、運んだ。
運んで、ゴミ箱の真上に、ノートを、かざした。
でも、手を、離せなかった。
誠は、しばらく、ノートを、ゴミ箱の上に、かざしたまま、止まっていた。
止まっているうちに、誠の中で、ある声が、聞こえた。
「これは、捨てちゃいけない」
その声は、誠の中の、これまで、聞いたことのない場所から、聞こえてきた。
誠は、その声に、耳を、傾けた。
傾けて、しばらく、考えた。
考えた末に、誠は、ノートを、ゴミ箱の上から、離した。
離して、机の上に、戻した。
戻したあとで、誠は、自分にこう問いかけた。
――なぜ、捨てられなかったのか。
その問いに、誠は、答えを、持っていなかった。
でも、いくつかの仮説を、立てた。
仮説1:捨てると、観察の蓄積が、失われる。蓄積は、誠にとって、価値があるものだから、失いたくない。
仮説2:捨てると、真弓のページが、永遠に、消える。永遠に消えることが、なぜか、嫌だ。
仮説3:捨てると、自分の過去が、消える。過去が消えると、未来の自分が、過去の自分から、繋がっていない感じが、する。
誠は、三つの仮説を、並べて、見比べた。
三つとも、それぞれ、誠の中に、当てはまる気が、した。
三つとも、誠が、ノートを捨てない理由として、機能していた。
誠は、その三つの理由を、ノートの新しいページに、書いた。
書いてから、誠は、思った。
――俺は、これを、所有していたいんだ。
「所有」という言葉が、誠の中に、立ち上がった。
誠は、ノートを、所有していたかった。
所有することで、誠は、何かを、保ちたかった。
何を、保ちたいのかは、誠には、まだ、分からなかった。
分からないまま、誠は、ノートを、机の引き出しに、しまった。
しまったあとで、誠は、自分の手を、見た。
自分の手は、軽く、震えていた。
誠は、第8話、第9話と、ノートに「書けない」感覚を、何度も経験していた。
第11話の三月の朝、誠は、初めて、「捨てられない」感覚を、経験した。
「書けない」と「捨てられない」は、構造的に、同じものだった。
どちらも、誠が、自分の感情を、認識する仕組みの中での、つまずきだった。
つまずきながら、誠は、何かを、抱え続けていた。
抱え続けるしか、誠は、できなかった。
誠は、廊下に、しばらく立っていた。
真弓の「消さなくていいよ」という言葉が、誠の中で、再生されていた。
真弓は、第9話で、「ノートから、私のこと、消してほしい」と言っていた。
でも、第11話で、真弓は、「消さなくていい」と、訂正した。
訂正の理由を、真弓は、誠に、はっきりと言わなかった。
でも、誠の中では、ある推測が、立ち上がっていた。
真弓は、たぶん、自分のことを、ノートに残してくれることが、嬉しかった。
嬉しい、という感情を、真弓も、認めることが、難しかったのかもしれない。
だから、「消さなくていい」という、控えめな言い方になった。
これは、誠の推測だった。
正しいかどうか、誠には、確認する方法は、なかった。
でも、誠は、その推測を、自分の中で、信じることに、決めた。
信じることで、誠は、自分のノートを、捨てなかったことを、肯定できた。
肯定したあとで、誠は、自分の中で、ある変化を、感じた。
これまでの誠は、何かを、肯定する根拠を、必ず、論理に、求めていた。
でも、第11話の誠は、論理ではなく、推測で、自分の行動を、肯定していた。
これは、誠にとって、新しい行動原理だった。
新しい行動原理は、誠の構造を、ほんの少しだけ、緩めた。
緩めたことで、誠の中の、何かが、呼吸を、始めた。
呼吸し始めた何かは、十八年かけて、誠の中で、ゆっくりと、育っていく。
その何かが、十八年後に、誠を、別のかたちの自分へと、連れていくことになる。
でも、それは、ずっと先のことだった。
引き出しの奥に、白い封筒が、ある。
真弓は、その封筒を、しばらく、見つめている。
その夜、真弓は、自分の部屋で、机の引き出しを、開けた。
引き出しの奥に、白い封筒が、入っていた。
第8話で、真弓が、誠に渡そうとして、渡せなかった、手紙だった。
真弓は、その封筒を、しばらく、見つめた。
見つめているうちに、ある考えが、頭の中に、浮かんできた。
――この手紙、捨てるべきか。
卒業したら、もう、誠と会うことは、ほとんどない。
会わない人に渡すための手紙は、もう、必要がない。
必要がないものを、持ち続けるのは、合理的では、なかった。
真弓は、その手紙を、捨てることを、考えた。
考えながら、封筒に、手を伸ばした。
持ち上げた。
そして、部屋の隅にある、ゴミ箱の前に、立った。
でも、捨てられなかった。
真弓は、誠と、同じ場面に、いた。
誠が、ノートを、ゴミ箱の上に、かざしていた、その朝の場面と、同じ場面に、真弓も、いた。
二人は、同じ街の、別々の部屋で、同じ動作を、していた。
そのことを、二人は、知らなかった。
知らないまま、真弓も、手紙を、捨てられなかった。
真弓は、しばらく、封筒を、ゴミ箱の上に、かざしていた。
かざしたまま、思った。
――この手紙、捨てると、私の中で、何かが、終わる。
「終わる」という感覚を、真弓は、自分の中で、確かめた。
確かめてから、真弓は、思った。
――まだ、終わらせたくない。
真弓は、自分の中の、その「まだ、終わらせたくない」気持ちを、認めた。
認めた瞬間、真弓は、自分が、何かを、所有していたかった、ということに、気づいた。
真弓が、所有していたかったのは、誠への気持ちだった。
その気持ちは、もう、誠に、届く可能性が、ない。
届かないなら、捨てればいい。
でも、真弓は、捨てられなかった。
届かない気持ちを、誰にも見せずに、自分の中だけで、所有していたかった。
これが、保有効果の、最も静かな働き方だった。
真弓は、自分の中で、その働き方を、認識した。
認識して、真弓は、ゴミ箱の前から、離れた。
離れて、白い封筒を、もう一度、引き出しの奥に、しまった。
しまうとき、真弓は、自分にこう言った。
――この手紙、私の、十七歳の証だから。
「証」という言葉が、真弓の中に、立ち上がった。
この手紙は、真弓が、十七歳のあいだに、誰かを好きになった、という証だった。
その「誰か」が、誠であるかどうかは、もう、関係なかった。
大事なのは、十七歳の真弓が、誰かを好きになった、という事実だった。
その事実を、真弓は、所有していたかった。
所有することで、真弓は、自分の十七歳を、保つことができる。
保たれた十七歳は、これから、真弓の人生を、支える、土台になる。
真弓は、そのことを、自分の中で、確かめた。
確かめてから、真弓は、引き出しを、閉めた。
閉めたあとで、真弓は、思った。
――誠も、私のページを、消さなかったんだよね。
誠の理由は、誠にしか、分からなかった。
でも、真弓は、誠の理由を、推測することは、できた。
誠も、たぶん、自分の十七歳を、保ちたかったのだ。
真弓のページを、消すことは、誠にとって、自分の十七歳の一部を、消すことに、等しかった。
誠の十七歳の中に、真弓は、確かに、存在していた。
存在していたものを、消すことは、誠にも、できなかった。
これは、真弓の推測だった。
でも、真弓は、その推測を、信じることにした。
信じることで、真弓は、誠との関係を、終わったあとも、自分の中で、保つことができた。
保たれた関係は、もう、誠とは、関係なかった。
真弓の中だけで、存在する、関係だった。
その関係を、真弓は、自分の十七歳の証として、所有し続けることに、決めた。
失望値、もう、計測する意味は、なかった。
第8話までの失望値は、真弓が、誠に何かを期待していたことの、計測値だった。
第11話の真弓は、もう、誠に、何も期待していなかった。
期待していないなら、失望することも、ない。
失望値、ゼロ。
でも、ゼロになったのは、悲しいことではなかった。
これは、真弓の、解放だった。
解放されたあとに、残ったのは、自分の十七歳の、証だった。
その証を、真弓は、誰にも見せずに、自分だけで、抱えていく。
抱えていくことが、真弓の、これからの十八年の、生き方になる。
同じ夜、誠は、自分の部屋で、机の引き出しを、開けていた。
誠の引き出しには、ノートが、二冊、入っていた。
誠は、ノートを、出して、机の上に、並べた。
並べてから、誠は、観察ノートのほうを、開いた。
真弓のページを、開いた。
真弓のページには、たくさんの観察結果が、書かれていた。
「真弓は、感情で判断する」
「真弓は、群れの中で、自分を出さない」
「真弓は、優しい」
「真弓は、自分のことを、表に出さない」
「真弓は、観察対象として、扱われることを、嫌う」
「真弓は、もう、観察対象から、外れた」
誠は、それらの観察結果を、しばらく、見ていた。
見ていて、誠は、初めて、ある違和感を、覚えた。
これらの観察結果は、すべて、真弓を、外側から、見たものだった。
真弓が、何を、感じていたか。
真弓が、何を、考えていたか。
真弓が、何を、望んでいたか。
これらは、誠のノートには、書かれていなかった。
書けなかった。
誠には、真弓の内側を、見る方法が、なかったからだ。
でも、その「内側」が、本当は、真弓のすべてだった。
誠は、真弓の外側だけを、観察してきた。
真弓の本当の姿は、誠のノートには、ほとんど、書かれていなかった。
誠は、その事実に、深く、傷ついた。
傷ついた、と認識したのは、第10話に続いて、二回目だった。
誠は、ペンを取って、真弓のページの、最後に、こう書いた。
「俺は、真弓のことを、ほとんど、知らなかった」
書いて、誠は、しばらく、その文字を、見ていた。
見ていると、別の文字を、書きたくなった。
誠は、続けて、こう書いた。
「知らなかったことが、最大の、罪だった」
書いて、誠は、ペンを、置いた。
そして、ノートを、閉じた。
閉じてから、誠は、自分の手を、見た。
自分の手は、震えていた。
でも、その震えは、悲しさからのものではなかった。
怒りからのものでも、なかった。
それは、認識の震えだった。
誠は、自分が、十七年間、間違っていた、ということを、認識していた。
間違っていたことを、認めることは、誠の構造を、根本から、揺るがした。
誠の構造は、「自分は、合理的に、観察してきた」という前提の上に、成り立っていた。
その前提が、崩れた。
合理的に、観察してきたつもりだったが、観察できていたのは、相手の外側だけだった。
外側だけを観察することは、本当の理解では、なかった。
誠は、自分が、誰のことも、本当には、理解できていなかった、ということを、認めた。
認めた瞬間、誠の構造は、ほどけた。
ほどけたあとで、誠は、新しい構造を、作る必要が、あった。
でも、その夜の誠には、新しい構造を、作る力は、なかった。
誠は、ノートを、引き出しに、戻した。
戻したあとで、誠は、ベッドに、横になった。
横になったまま、誠は、ノートのことを、考え続けていた。
考えながら、誠は、思った。
――このノートは、捨てない。
――でも、新しいノートを、これから、作る。
――新しいノートには、外側だけじゃなく、内側も、書こうとする。
――書けないかもしれない。でも、書こうとする。
これが、誠の、新しい決意だった。
その決意は、まだ、形になっていなかった。
でも、確かに、誠の中で、立ち上がっていた。
立ち上がった決意は、十八年後、誠を、新しいノートを書き直す行為に、導くことになる。
でも、それは、ずっと先のことだった。
その夜、誠は、いつもより、深く、眠った。
第8話以来、何度も浅かった誠の眠りが、その夜、深くなった。
深く眠れたのは、誠が、自分の構造の限界を、認めたからだった。
認めることは、降参のように、見える。
でも、降参することで、人は、ようやく、本当の自分を、見つけ始めることができる。
誠は、その夜、降参した。
降参したあとの誠の眠りは、十七年間で、最も、深かった。
所有していたものから、失ったものを引く。引いたあとに、残ったものが、本当に、自分が持っているものだ。
誠が、所有していたのは、観察ノートだった。誠が、失ったのは、真弓との関係だった。引き算した結果、残ったのは、真弓のページがある、観察ノートだった。
真弓のページは、誠にとって、もう、観察対象としての価値は、なかった。真弓は、もう、観察できる場所には、いなかった。
でも、誠は、そのページを、捨てられなかった。捨てられなかった理由は、誠にも、分からなかった。
分からない理由は、計算式の余りとして、残った。
引き算は、本来、洗練のためのものだ。要らないものを、引く。引くことで、本質が、残る。
でも、第11話の引き算は、洗練ではなく、別の意味を持っていた。引いたあとに残った「余り」が、誠にとって、最も、大切なものだった。
余りは、論理では、説明できなかった。余りは、ただ、誠の中に、存在していた。存在することの理由を、誠は、知らなかった。でも、存在していることだけは、確かだった。
真弓も、同じ夜、同じ引き算を、していた。真弓が、所有していたのは、白い封筒の中の手紙だった。真弓が、失ったのは、誠との関係だった。引き算した結果、残ったのは、渡せなかった手紙だった。
その手紙を、真弓も、捨てられなかった。捨てられなかった理由を、真弓は、自分なりに、理解していた。「これは、私の十七歳の証だ」
誠も、真弓も、それぞれ、何かを、所有していた。所有しているものは、もう、相手とは、関係なかった。でも、相手と過ごした時間の、痕跡だった。
痕跡を、捨てない。痕跡を、所有する。所有することで、過去を、保つ。
過去を保つことが、未来の自分を、支える。
引き算で、見えてくるのは、本質の重さだった。重いものは、捨てられない。捨てられないものこそ、本物だった。
真弓は、誠の前を、歩いていった。
歩きながら、真弓の中で、ある気持ちが、湧き上がっていた。
誠が、初めて「ありがとう」と言った。
それは、誠の中で、何かが、変わり始めている、証拠だった。
真弓は、その変化を、見届けたいと、思った。
でも、見届ける時間は、もう、なかった。
明日、卒業式だった。
卒業したら、二人は、別々の高校に、進む。
会う機会は、ほとんど、ない。
真弓は、誠の変化を、見届けることなく、誠と、別れることになる。
別れることが、決まっていることは、悲しかった。
でも、悲しさは、もう、痛みでは、なかった。
悲しさを、抱えながら、生きていく。
これが、真弓の、これからの、生き方だった。
誠も、たぶん、そうやって、生きていく。
分からないことを、抱えながら。
悲しさを、抱えながら。
所有していたものを、捨てずに。
真弓は、自分のクラスに戻りながら、誠が、これから、どんな大人に、なっていくのかを、想像した。
想像できなかった。
誠は、これから、いろんな経験をして、変わっていく。
変わったあとの誠を、真弓は、知ることが、ないだろう。
でも、想像できなくても、よかった。
真弓の中の誠は、十七歳の誠で、固定されていた。
それで、十分だった。
真弓は、自分のクラスのドアを、開けた。
クラスの中では、いつものグループの女子たちが、笑っていた。
真弓は、その輪の中に、戻った。
戻りながら、真弓は、自分の中で、誠との時間を、そっと、しまった。
しまったまま、真弓は、グループの会話に、加わった。
加わりながら、真弓は、笑った。
笑いは、本物だった。
本物の笑いの下に、しまわれた誠との時間は、誰にも、見えなかった。
見えないまま、真弓の中に、ずっと、保管され続けた。
誠は、廊下に、しばらく、立っていた。
誠が、ノートの最後のページに、ある文字を、書いている。
書いている文字は、これまでとは、違う、種類の文字だった。
その夜、誠は、自分の机に、ノートを、開いていた。
誠は、観察ノートの、最後のページに、新しい文字を、書こうとしていた。
これまでの誠は、ノートに、観察結果を、書いていた。
でも、第11話の夜、誠は、観察結果ではないものを、書こうとしていた。
誠は、ペンを取って、こう書いた。
「分からないことを、分からないまま、持っていていい」
書いて、誠は、その文字を、見つめた。
それは、真弓の言葉だった。
でも、誠の文字で、書かれていた。
真弓の言葉が、誠のノートの中で、誠の言葉に、変わっていた。
誠は、その変化を、自分の中で、確認した。
誰かの言葉を、自分の中に、取り込む。
取り込んだ言葉が、自分の構造を、少しだけ、変える。
これは、誠が、これまで、あまり経験してこなかったことだった。
誠は、他人の言葉を、データとして、扱ってきた。
でも、この言葉は、データではなかった。
この言葉は、誠の中で、何かを、支える柱になった。
柱は、まだ、細かった。
でも、確かに、立っていた。
誠は、ノートを、閉じた。
閉じてから、引き出しを、開けた。
観察ノートと、「答えのない問い」のノートを、二冊とも、引き出しの奥に、しまった。
しまってから、誠は、思った。
――明日、卒業する。
卒業したら、このノートを、どうするのか。
誠は、少し、考えた。
考えた末に、答えを出した。
持っていく。
誠は、ノートを、持っていくことにした。
新しい高校にも、持っていく。
持っていくことで、過去を、引きずることになるかもしれない。
でも、持っていかないと、過去が、途切れるような気がした。
過去が途切れることを、誠は、怖いと感じた。
怖い、という感情を、誠は、もう、否定しなかった。
怖いなら、怖いでいい。
分からないなら、分からないでいい。
捨てられないなら、捨てられないでいい。
そのまま、持っていけばいい。
これが、第11話の誠が、ようやく、辿り着いた結論だった。
所有について、もう少し、書いておく。
所有は、物を持つことだけではない。
記憶を持つこと。感情を持つこと。過去を持つこと。誰にも見せない証を、自分の中に、しまっておくこと。それらも、すべて、所有だ。
所有しているものは、いつか、手放すべきものになるかもしれない。
でも、手放すタイミングは、外側から、決められるものではない。
合理的には、捨てたほうがいいものでも、まだ、捨てられないときがある。
捨てられないなら、まだ、持っていていい。
持っていることに、意味がある。
持っていることで、自分の過去と、未来が、つながる。
誠は、ノートを、持っていく。
真弓は、白い封筒を、持っていく。
二人とも、相手そのものは、もう、持っていない。
でも、相手と過ごした時間の痕跡を、持っている。
痕跡を持つことは、過去に縛られることではない。
過去を、未来に運ぶことだ。
誠は、ノートを、持っていく。でも、ノートに、支配されることは、これから、少しずつ、やめていく。
持つことと、縛られることは、違う。
大切なのは、持ちながら、歩いていくことだ。
止まるために持つのではない。歩くために、持つ。
過去を持って、未来に進む。それが、所有との、よい付き合い方だ。
あなたにも、自分の証を、大切にしてほしい。
合理的でなくても、いい。捨てられないものは、捨てなくていい。持って、生きていけばいい。
これが、真弓から、十八年後のあなたへの、八つ目のメッセージだ。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・保有効果 (Endowment Effect)
- ・サンクコスト (Sunk Cost)


