第11章 所有 —— 手放したものを、まだ手にしていると感じる — Portrait of Identity

所有

POSSESSION
三月の中頃、卒業式の三日前。誠の机の上のノート。 ノートの背表紙に、誠の指が、軽く触れている。 そのノートを、捨てるべきか、誠は、迷っている。
三月の中頃、卒業式の三日前。誠の机の上のノート。
ノートの背表紙に、誠の指が、軽く触れている。
そのノートを、捨てるべきか、誠は、迷っている。

手放したもののほうが、まだ手にしていたものより、価値があるように、感じられる。

これは、不思議な現象だ。

同じものを、まだ自分が持っているときと、手放したあとで、感じる価値が、違ってくる。手放したあとのほうが、価値が、高く感じられる。

たとえば、子どものころに使っていたおもちゃ。捨ててから、ふと、あれは大事なものだったと、思う。捨てる前は、要らないと思っていた。捨てた瞬間に、急に、価値が、上がる。

たとえば、別れた人。一緒にいたときには、わずらわしいと思っていた。別れたあとに、ふと、あの人は、自分にとって、大事な人だったと、気づく。

たとえば、卒業した学校。在学中は、早く卒業したいと思っていた。卒業した瞬間に、戻りたくなる。

これらは、すべて、同じ構造だ。

失ったものが、得られなくなることで、価値が、上がる。

これは、人間の脳の、一つの癖だ。

癖だから、止められない。

でも、癖だと知っていれば、その癖に、振り回されずに済む。

誠は、卒業式の三日前、その癖の中に、足を踏み入れた。

真弓も、同じ三日前、別の形で、その癖の中にいた。

二人とも、まだ、自分の癖を、認識していなかった。

認識する前に、卒業の日が、来た。

· · ·

三月の中頃、卒業式まで、あと三日だった。

誠は、自分の机の上に、二冊のノートを、並べていた。

一冊は、誠が、ずっと使っていた、観察ノート。

もう一冊は、第10話以降、誠が新しく作った、「答えのない問い」のフォルダのノート。

誠は、その二冊を、しばらく、見ていた。

卒業したら、新しい高校に、入る。新しい高校では、新しいノートが、必要になる。

古いノートは、捨てるか、しまうか、どちらかだった。

誠は、捨てることを、考えた。

古いノートには、たくさんの観察結果が、詰まっていた。クラスメイトの観察。授業の記録。本を読んだときのメモ。そして、真弓のページ。

真弓のページは、誠の観察ノートの、ある一定の比率を、占めていた。

その比率を、誠は、自分でも、よく分かっていた。

真弓のページは、誠が、観察してきた中で、最も、長く続いた、観察対象だった。

でも、第9話で、真弓は、自分のことを、ノートから消してほしい、と言った。

消そうと思えば、ノートごと、捨てればよかった。

捨てれば、真弓のページも、消える。

誠は、ノートを、手に取った。

持ち上げた。

そして、ゴミ箱の上に、ノートを、運んだ。

運んで、ゴミ箱の真上に、ノートを、かざした。

でも、手を、離せなかった。

誠は、しばらく、ノートを、ゴミ箱の上に、かざしたまま、止まっていた。

止まっているうちに、誠の中で、ある声が、聞こえた。

「これは、捨てちゃいけない」

その声は、誠の中の、これまで、聞いたことのない場所から、聞こえてきた。

誠は、その声に、耳を、傾けた。

傾けて、しばらく、考えた。

考えた末に、誠は、ノートを、ゴミ箱の上から、離した。

離して、机の上に、戻した。

戻したあとで、誠は、自分にこう問いかけた。

――なぜ、捨てられなかったのか。

その問いに、誠は、答えを、持っていなかった。

でも、いくつかの仮説を、立てた。

仮説1:捨てると、観察の蓄積が、失われる。蓄積は、誠にとって、価値があるものだから、失いたくない。

仮説2:捨てると、真弓のページが、永遠に、消える。永遠に消えることが、なぜか、嫌だ。

仮説3:捨てると、自分の過去が、消える。過去が消えると、未来の自分が、過去の自分から、繋がっていない感じが、する。

誠は、三つの仮説を、並べて、見比べた。

三つとも、それぞれ、誠の中に、当てはまる気が、した。

三つとも、誠が、ノートを捨てない理由として、機能していた。

誠は、その三つの理由を、ノートの新しいページに、書いた。

書いてから、誠は、思った。

――俺は、これを、所有していたいんだ。

「所有」という言葉が、誠の中に、立ち上がった。

誠は、ノートを、所有していたかった。

所有することで、誠は、何かを、保ちたかった。

何を、保ちたいのかは、誠には、まだ、分からなかった。

分からないまま、誠は、ノートを、机の引き出しに、しまった。

しまったあとで、誠は、自分の手を、見た。

自分の手は、軽く、震えていた。

誠は、第8話、第9話と、ノートに「書けない」感覚を、何度も経験していた。

第11話の三月の朝、誠は、初めて、「捨てられない」感覚を、経験した。

「書けない」と「捨てられない」は、構造的に、同じものだった。

どちらも、誠が、自分の感情を、認識する仕組みの中での、つまずきだった。

つまずきながら、誠は、何かを、抱え続けていた。

抱え続けるしか、誠は、できなかった。

Scene 01
卒業式の二日前 / 廊下 / すれ違い
真弓
真弓
あ。
誠
どうした。
真弓
真弓
いや、ちょっと、聞きたいことがあって。
誠
何。
真弓
真弓
あなたのノート、まだ、つけてるの?
誠
誠は、しばらく、答えなかった。
誠
……つけている。
真弓
真弓
私のページ、消した?
誠
誠は、また、しばらく、答えなかった。
誠
……消していない。
真弓
真弓
なんで?
誠
……分からない。
真弓
真弓
分からない、って。
誠
分からない。消そうとしたが、できなかった。理由は、自分でも、分からない。
真弓
真弓
真弓は、しばらく、誠の顔を見ていた。
真弓
真弓
じゃあ、消さなくていいよ。
誠
……いいのか。
真弓
真弓
あなたが、消せないって思うなら、それは、消さない理由が、ある、ってことでしょ。
真弓
真弓
理由は、あなた自身が、これから、見つけていけばいい。
誠
誠は、何か言おうとして、言葉が、出てこなかった。
真弓
真弓
じゃあ、また。
真弓
真弓
真弓は、誠の前を、通り過ぎた。

誠は、廊下に、しばらく立っていた。

真弓の「消さなくていいよ」という言葉が、誠の中で、再生されていた。

真弓は、第9話で、「ノートから、私のこと、消してほしい」と言っていた。

でも、第11話で、真弓は、「消さなくていい」と、訂正した。

訂正の理由を、真弓は、誠に、はっきりと言わなかった。

でも、誠の中では、ある推測が、立ち上がっていた。

真弓は、たぶん、自分のことを、ノートに残してくれることが、嬉しかった。

嬉しい、という感情を、真弓も、認めることが、難しかったのかもしれない。

だから、「消さなくていい」という、控えめな言い方になった。

これは、誠の推測だった。

正しいかどうか、誠には、確認する方法は、なかった。

でも、誠は、その推測を、自分の中で、信じることに、決めた。

信じることで、誠は、自分のノートを、捨てなかったことを、肯定できた。

肯定したあとで、誠は、自分の中で、ある変化を、感じた。

これまでの誠は、何かを、肯定する根拠を、必ず、論理に、求めていた。

でも、第11話の誠は、論理ではなく、推測で、自分の行動を、肯定していた。

これは、誠にとって、新しい行動原理だった。

新しい行動原理は、誠の構造を、ほんの少しだけ、緩めた。

緩めたことで、誠の中の、何かが、呼吸を、始めた。

呼吸し始めた何かは、十八年かけて、誠の中で、ゆっくりと、育っていく。

その何かが、十八年後に、誠を、別のかたちの自分へと、連れていくことになる。

でも、それは、ずっと先のことだった。

その夜、真弓の部屋。机の引き出しを、開けている。 引き出しの奥に、白い封筒が、ある。 真弓は、その封筒を、しばらく、見つめている。
その夜、真弓の部屋。机の引き出しを、開けている。
引き出しの奥に、白い封筒が、ある。
真弓は、その封筒を、しばらく、見つめている。

その夜、真弓は、自分の部屋で、机の引き出しを、開けた。

引き出しの奥に、白い封筒が、入っていた。

第8話で、真弓が、誠に渡そうとして、渡せなかった、手紙だった。

真弓は、その封筒を、しばらく、見つめた。

見つめているうちに、ある考えが、頭の中に、浮かんできた。

――この手紙、捨てるべきか。

卒業したら、もう、誠と会うことは、ほとんどない。

会わない人に渡すための手紙は、もう、必要がない。

必要がないものを、持ち続けるのは、合理的では、なかった。

真弓は、その手紙を、捨てることを、考えた。

考えながら、封筒に、手を伸ばした。

持ち上げた。

そして、部屋の隅にある、ゴミ箱の前に、立った。

でも、捨てられなかった。

真弓は、誠と、同じ場面に、いた。

誠が、ノートを、ゴミ箱の上に、かざしていた、その朝の場面と、同じ場面に、真弓も、いた。

二人は、同じ街の、別々の部屋で、同じ動作を、していた。

そのことを、二人は、知らなかった。

知らないまま、真弓も、手紙を、捨てられなかった。

真弓は、しばらく、封筒を、ゴミ箱の上に、かざしていた。

かざしたまま、思った。

――この手紙、捨てると、私の中で、何かが、終わる。

「終わる」という感覚を、真弓は、自分の中で、確かめた。

確かめてから、真弓は、思った。

――まだ、終わらせたくない。

真弓は、自分の中の、その「まだ、終わらせたくない」気持ちを、認めた。

認めた瞬間、真弓は、自分が、何かを、所有していたかった、ということに、気づいた。

真弓が、所有していたかったのは、誠への気持ちだった。

その気持ちは、もう、誠に、届く可能性が、ない。

届かないなら、捨てればいい。

でも、真弓は、捨てられなかった。

届かない気持ちを、誰にも見せずに、自分の中だけで、所有していたかった。

これが、保有効果の、最も静かな働き方だった。

真弓は、自分の中で、その働き方を、認識した。

認識して、真弓は、ゴミ箱の前から、離れた。

離れて、白い封筒を、もう一度、引き出しの奥に、しまった。

しまうとき、真弓は、自分にこう言った。

――この手紙、私の、十七歳の証だから。

「証」という言葉が、真弓の中に、立ち上がった。

この手紙は、真弓が、十七歳のあいだに、誰かを好きになった、という証だった。

その「誰か」が、誠であるかどうかは、もう、関係なかった。

大事なのは、十七歳の真弓が、誰かを好きになった、という事実だった。

その事実を、真弓は、所有していたかった。

所有することで、真弓は、自分の十七歳を、保つことができる。

保たれた十七歳は、これから、真弓の人生を、支える、土台になる。

真弓は、そのことを、自分の中で、確かめた。

確かめてから、真弓は、引き出しを、閉めた。

閉めたあとで、真弓は、思った。

――誠も、私のページを、消さなかったんだよね。

誠の理由は、誠にしか、分からなかった。

でも、真弓は、誠の理由を、推測することは、できた。

誠も、たぶん、自分の十七歳を、保ちたかったのだ。

真弓のページを、消すことは、誠にとって、自分の十七歳の一部を、消すことに、等しかった。

誠の十七歳の中に、真弓は、確かに、存在していた。

存在していたものを、消すことは、誠にも、できなかった。

これは、真弓の推測だった。

でも、真弓は、その推測を、信じることにした。

信じることで、真弓は、誠との関係を、終わったあとも、自分の中で、保つことができた。

保たれた関係は、もう、誠とは、関係なかった。

真弓の中だけで、存在する、関係だった。

その関係を、真弓は、自分の十七歳の証として、所有し続けることに、決めた。

失望値、もう、計測する意味は、なかった。

第8話までの失望値は、真弓が、誠に何かを期待していたことの、計測値だった。

第11話の真弓は、もう、誠に、何も期待していなかった。

期待していないなら、失望することも、ない。

失望値、ゼロ。

でも、ゼロになったのは、悲しいことではなかった。

これは、真弓の、解放だった。

解放されたあとに、残ったのは、自分の十七歳の、証だった。

その証を、真弓は、誰にも見せずに、自分だけで、抱えていく。

抱えていくことが、真弓の、これからの十八年の、生き方になる。

· · ·

同じ夜、誠は、自分の部屋で、机の引き出しを、開けていた。

誠の引き出しには、ノートが、二冊、入っていた。

誠は、ノートを、出して、机の上に、並べた。

並べてから、誠は、観察ノートのほうを、開いた。

真弓のページを、開いた。

真弓のページには、たくさんの観察結果が、書かれていた。

「真弓は、感情で判断する」

「真弓は、群れの中で、自分を出さない」

「真弓は、優しい」

「真弓は、自分のことを、表に出さない」

「真弓は、観察対象として、扱われることを、嫌う」

「真弓は、もう、観察対象から、外れた」

誠は、それらの観察結果を、しばらく、見ていた。

見ていて、誠は、初めて、ある違和感を、覚えた。

これらの観察結果は、すべて、真弓を、外側から、見たものだった。

真弓が、何を、感じていたか。

真弓が、何を、考えていたか。

真弓が、何を、望んでいたか。

これらは、誠のノートには、書かれていなかった。

書けなかった。

誠には、真弓の内側を、見る方法が、なかったからだ。

でも、その「内側」が、本当は、真弓のすべてだった。

誠は、真弓の外側だけを、観察してきた。

真弓の本当の姿は、誠のノートには、ほとんど、書かれていなかった。

誠は、その事実に、深く、傷ついた。

傷ついた、と認識したのは、第10話に続いて、二回目だった。

誠は、ペンを取って、真弓のページの、最後に、こう書いた。

「俺は、真弓のことを、ほとんど、知らなかった」

書いて、誠は、しばらく、その文字を、見ていた。

見ていると、別の文字を、書きたくなった。

誠は、続けて、こう書いた。

「知らなかったことが、最大の、罪だった」

書いて、誠は、ペンを、置いた。

そして、ノートを、閉じた。

閉じてから、誠は、自分の手を、見た。

自分の手は、震えていた。

でも、その震えは、悲しさからのものではなかった。

怒りからのものでも、なかった。

それは、認識の震えだった。

誠は、自分が、十七年間、間違っていた、ということを、認識していた。

間違っていたことを、認めることは、誠の構造を、根本から、揺るがした。

誠の構造は、「自分は、合理的に、観察してきた」という前提の上に、成り立っていた。

その前提が、崩れた。

合理的に、観察してきたつもりだったが、観察できていたのは、相手の外側だけだった。

外側だけを観察することは、本当の理解では、なかった。

誠は、自分が、誰のことも、本当には、理解できていなかった、ということを、認めた。

認めた瞬間、誠の構造は、ほどけた。

ほどけたあとで、誠は、新しい構造を、作る必要が、あった。

でも、その夜の誠には、新しい構造を、作る力は、なかった。

誠は、ノートを、引き出しに、戻した。

戻したあとで、誠は、ベッドに、横になった。

横になったまま、誠は、ノートのことを、考え続けていた。

考えながら、誠は、思った。

――このノートは、捨てない。

――でも、新しいノートを、これから、作る。

――新しいノートには、外側だけじゃなく、内側も、書こうとする。

――書けないかもしれない。でも、書こうとする。

これが、誠の、新しい決意だった。

その決意は、まだ、形になっていなかった。

でも、確かに、誠の中で、立ち上がっていた。

立ち上がった決意は、十八年後、誠を、新しいノートを書き直す行為に、導くことになる。

でも、それは、ずっと先のことだった。

その夜、誠は、いつもより、深く、眠った。

第8話以来、何度も浅かった誠の眠りが、その夜、深くなった。

深く眠れたのは、誠が、自分の構造の限界を、認めたからだった。

認めることは、降参のように、見える。

でも、降参することで、人は、ようやく、本当の自分を、見つけ始めることができる。

誠は、その夜、降参した。

降参したあとの誠の眠りは、十七年間で、最も、深かった。

誠の計算式 — 引き算(ー)
所有していたもの ー 失ったもの = 残ったもの
…余り:捨てられなかった理由
所有を、引き算で考えてみる。

所有していたものから、失ったものを引く。引いたあとに、残ったものが、本当に、自分が持っているものだ。

誠が、所有していたのは、観察ノートだった。誠が、失ったのは、真弓との関係だった。引き算した結果、残ったのは、真弓のページがある、観察ノートだった。

真弓のページは、誠にとって、もう、観察対象としての価値は、なかった。真弓は、もう、観察できる場所には、いなかった。

でも、誠は、そのページを、捨てられなかった。捨てられなかった理由は、誠にも、分からなかった。

分からない理由は、計算式の余りとして、残った。

引き算は、本来、洗練のためのものだ。要らないものを、引く。引くことで、本質が、残る。

でも、第11話の引き算は、洗練ではなく、別の意味を持っていた。引いたあとに残った「余り」が、誠にとって、最も、大切なものだった。

余りは、論理では、説明できなかった。余りは、ただ、誠の中に、存在していた。存在することの理由を、誠は、知らなかった。でも、存在していることだけは、確かだった。

真弓も、同じ夜、同じ引き算を、していた。真弓が、所有していたのは、白い封筒の中の手紙だった。真弓が、失ったのは、誠との関係だった。引き算した結果、残ったのは、渡せなかった手紙だった。

その手紙を、真弓も、捨てられなかった。捨てられなかった理由を、真弓は、自分なりに、理解していた。「これは、私の十七歳の証だ」

誠も、真弓も、それぞれ、何かを、所有していた。所有しているものは、もう、相手とは、関係なかった。でも、相手と過ごした時間の、痕跡だった。

痕跡を、捨てない。痕跡を、所有する。所有することで、過去を、保つ。

過去を保つことが、未来の自分を、支える。

引き算で、見えてくるのは、本質の重さだった。重いものは、捨てられない。捨てられないものこそ、本物だった。
Scene 02
卒業式の前日 / 教室 / 最後の確認
真弓
真弓
明日、卒業式だね。
誠
そうだな。
真弓
真弓
三年間、早かったね。
誠
そうかもしれない。
真弓
真弓
あなたは、長く感じた?
誠
誠は、しばらく、考えた。
誠
分からない。
真弓
真弓
「分からない」って、最近、よく言うね。
誠
そうかもしれない。
真弓
真弓
分からないって、悪いことじゃないよ。
誠
そうか。
真弓
真弓
分からないこと、抱えながら、生きていけばいいんだよ。
誠
誠は、真弓の言葉を、しばらく、頭の中で、再生した。
誠
……ありがとう。
真弓
真弓
真弓は、誠の「ありがとう」に、少しだけ、目を見開いた。
真弓
真弓
あなた、初めて、「ありがとう」って、言ったね。
誠
そうかもしれない。
真弓
真弓
じゃあ、明日。
誠
明日。

真弓は、誠の前を、歩いていった。

歩きながら、真弓の中で、ある気持ちが、湧き上がっていた。

誠が、初めて「ありがとう」と言った。

それは、誠の中で、何かが、変わり始めている、証拠だった。

真弓は、その変化を、見届けたいと、思った。

でも、見届ける時間は、もう、なかった。

明日、卒業式だった。

卒業したら、二人は、別々の高校に、進む。

会う機会は、ほとんど、ない。

真弓は、誠の変化を、見届けることなく、誠と、別れることになる。

別れることが、決まっていることは、悲しかった。

でも、悲しさは、もう、痛みでは、なかった。

悲しさを、抱えながら、生きていく。

これが、真弓の、これからの、生き方だった。

誠も、たぶん、そうやって、生きていく。

分からないことを、抱えながら。

悲しさを、抱えながら。

所有していたものを、捨てずに。

真弓は、自分のクラスに戻りながら、誠が、これから、どんな大人に、なっていくのかを、想像した。

想像できなかった。

誠は、これから、いろんな経験をして、変わっていく。

変わったあとの誠を、真弓は、知ることが、ないだろう。

でも、想像できなくても、よかった。

真弓の中の誠は、十七歳の誠で、固定されていた。

それで、十分だった。

真弓は、自分のクラスのドアを、開けた。

クラスの中では、いつものグループの女子たちが、笑っていた。

真弓は、その輪の中に、戻った。

戻りながら、真弓は、自分の中で、誠との時間を、そっと、しまった。

しまったまま、真弓は、グループの会話に、加わった。

加わりながら、真弓は、笑った。

笑いは、本物だった。

本物の笑いの下に、しまわれた誠との時間は、誰にも、見えなかった。

見えないまま、真弓の中に、ずっと、保管され続けた。

誠は、廊下に、しばらく、立っていた。

卒業式の前日の、夕暮れ。誠の机の上のノート。 誠が、ノートの最後のページに、ある文字を、書いている。 書いている文字は、これまでとは、違う、種類の文字だった。
卒業式の前日の、夕暮れ。誠の机の上のノート。
誠が、ノートの最後のページに、ある文字を、書いている。
書いている文字は、これまでとは、違う、種類の文字だった。

その夜、誠は、自分の机に、ノートを、開いていた。

誠は、観察ノートの、最後のページに、新しい文字を、書こうとしていた。

これまでの誠は、ノートに、観察結果を、書いていた。

でも、第11話の夜、誠は、観察結果ではないものを、書こうとしていた。

誠は、ペンを取って、こう書いた。

「分からないことを、分からないまま、持っていていい」

書いて、誠は、その文字を、見つめた。

それは、真弓の言葉だった。

でも、誠の文字で、書かれていた。

真弓の言葉が、誠のノートの中で、誠の言葉に、変わっていた。

誠は、その変化を、自分の中で、確認した。

誰かの言葉を、自分の中に、取り込む。

取り込んだ言葉が、自分の構造を、少しだけ、変える。

これは、誠が、これまで、あまり経験してこなかったことだった。

誠は、他人の言葉を、データとして、扱ってきた。

でも、この言葉は、データではなかった。

この言葉は、誠の中で、何かを、支える柱になった。

柱は、まだ、細かった。

でも、確かに、立っていた。

誠は、ノートを、閉じた。

閉じてから、引き出しを、開けた。

観察ノートと、「答えのない問い」のノートを、二冊とも、引き出しの奥に、しまった。

しまってから、誠は、思った。

――明日、卒業する。

卒業したら、このノートを、どうするのか。

誠は、少し、考えた。

考えた末に、答えを出した。

持っていく。

誠は、ノートを、持っていくことにした。

新しい高校にも、持っていく。

持っていくことで、過去を、引きずることになるかもしれない。

でも、持っていかないと、過去が、途切れるような気がした。

過去が途切れることを、誠は、怖いと感じた。

怖い、という感情を、誠は、もう、否定しなかった。

怖いなら、怖いでいい。

分からないなら、分からないでいい。

捨てられないなら、捨てられないでいい。

そのまま、持っていけばいい。

これが、第11話の誠が、ようやく、辿り着いた結論だった。

· · ·

所有について、もう少し、書いておく。

所有は、物を持つことだけではない。

記憶を持つこと。感情を持つこと。過去を持つこと。誰にも見せない証を、自分の中に、しまっておくこと。それらも、すべて、所有だ。

所有しているものは、いつか、手放すべきものになるかもしれない。

でも、手放すタイミングは、外側から、決められるものではない。

合理的には、捨てたほうがいいものでも、まだ、捨てられないときがある。

捨てられないなら、まだ、持っていていい。

持っていることに、意味がある。

持っていることで、自分の過去と、未来が、つながる。

誠は、ノートを、持っていく。

真弓は、白い封筒を、持っていく。

二人とも、相手そのものは、もう、持っていない。

でも、相手と過ごした時間の痕跡を、持っている。

痕跡を持つことは、過去に縛られることではない。

過去を、未来に運ぶことだ。

誠は、ノートを、持っていく。でも、ノートに、支配されることは、これから、少しずつ、やめていく。

持つことと、縛られることは、違う。

大切なのは、持ちながら、歩いていくことだ。

止まるために持つのではない。歩くために、持つ。

過去を持って、未来に進む。それが、所有との、よい付き合い方だ。

あなたにも、自分の証を、大切にしてほしい。

合理的でなくても、いい。捨てられないものは、捨てなくていい。持って、生きていけばいい。

これが、真弓から、十八年後のあなたへの、八つ目のメッセージだ。

· · ·
References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・保有効果 (Endowment Effect)
  • ・サンクコスト (Sunk Cost)
· · ·
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