第1章 勘違い —— 最初の三秒で、人を分かった気になる — Portrait of Identity

勘違い

MISJUDGMENT
四月の初めの廊下。新学期の朝、二年生の真弓が隣のクラスの誠とすれ違う。
四月の初めの廊下。新学期の朝。
二年生の真弓が、隣のクラスの誠と、廊下ですれ違う。
窓の外には、まだ、桜が、わずかに残っている。

最初の三秒で、人は、相手のすべてを、分かった気に、なる。

すれ違いざまに、見ただけの人。少し話しただけの人。SNSで、何度か、投稿を見ただけの人。私たちは、その人のことを「だいたい、こういう人」と、頭の中で、判定している。

判定は、早い。三秒もあれば、十分だ。三秒で得た情報を、頭の中で、その人の「全体像」として、固定する。

その後、もっと深い情報が、入ってきても、最初の三秒で作られた像は、簡単には、変わらない。新しい情報は、最初の像に、合うように、解釈される。合わない情報は、無視されるか、例外として処理される。

これが、勘違いの、構造だ。

勘違いは、悪意ではない。むしろ、人間の脳の、効率的な仕様だ。世界には、たくさんの人がいる。すべての人を、深く理解する時間は、ない。だから、脳は、最初の三秒で、簡単な判定をして、処理を、終わらせる。

この仕様は、サバンナで生き残るためには、必要だった。目の前にいるのが、敵か、味方か、三秒で判定できなければ、命が、危なかった。

でも、現代の人間関係において、この仕様は、副作用を、生む。

三秒で固定された像が、本当のその人とは、別物になる。別物の像を、その人だと、信じ込む。信じ込んだまま、その人と、関わり続ける。

関わりは、本物のその人ではなく、頭の中の像と、続いていく。

本物のその人は、頭の中の像の、向こう側に、隠れている。

真弓と誠の物語は、その仕様の中で、始まった。

四月の、新学期の朝。

真弓は、廊下で、誠とすれ違った。

真弓は、その三秒で、誠のことを、判定した。

判定された誠は、本物の誠とは、少しだけ、違う、別の像だった。

その「少しの違い」が、三年間かけて、二人のあいだに、決定的な距離を、作っていく。

でも、すれ違ったその瞬間、真弓は、その距離のことを、知らなかった。

知らないまま、真弓の心は、誠の像に、軽く、触れた。

触れた瞬間、何かが、始まった。

· · ·

四月の、二年生の、初めての朝だった。

真弓は、いつもより、少し、早く家を出ていた。

新しい教室、新しいクラスメイト、新しい時間割。新学期は、いつも、真弓を、少しだけ、緊張させた。

緊張しながら、廊下を、歩いていた。

歩いていると、向こうから、男子が、一人、歩いてきた。

誠だった。

誠の名前を、真弓は、知っていた。一年生のときに、同じクラスだった子が、誠と仲が良くて、その子から、何度か、誠の名前を、聞いていた。

でも、誠と、直接、話したことは、なかった。

真弓は、廊下で、誠と、すれ違った。

すれ違うとき、真弓は、誠の顔を、ちらりと、見た。

誠は、真弓のほうを、見ていなかった。

誠は、自分の手元の、ノートを、見ていた。

歩きながら、ノートを、開いて、何かを、確認していた。

真弓は、その姿を、三秒、見た。

三秒のあいだに、真弓の頭の中で、誠の像が、組み立てられた。

「真面目な人」

「勉強が、できそうな人」

「あまり、人と話さない人」

「自分の世界を、持っている人」

これらの判定は、誠の、その瞬間の姿から、引き出されたものだった。

歩きながらノートを開いていた、という、たった一つの行動から、真弓の頭の中で、誠の全体像が、勝手に、作られていた。

真弓は、それらの判定を、自覚していなかった。

自覚しないまま、誠の像は、真弓の中に、残った。

残った像は、これから、真弓が、誠と関わるときの、基準に、なる。

基準は、最初の三秒で、決まっていた。

真弓は、誠とすれ違ったあとも、廊下を、歩き続けた。

歩きながら、真弓は、思った。

――あの人、なんか、ちょっと、気になるな。

「気になる」という感覚を、真弓は、自分でも、よく分からなかった。

恋ではなかった。

でも、ただの興味でも、なかった。

その中間の場所に、その感覚は、あった。

真弓は、その感覚を、自分の中で、しまった。

しまったあとで、真弓は、自分のクラスの、ドアを、開けた。

クラスのなかでは、新しいクラスメイトたちが、自己紹介をしたり、挨拶を交わしたりしていた。

真弓は、その輪のなかに、加わった。

加わりながら、真弓の頭の片隅に、誠の像が、まだ、残っていた。

残っていることを、真弓は、自覚していなかった。

· · ·

同じ朝、誠も、廊下を、歩いていた。

誠は、ノートを、開きながら、歩いていた。

ノートには、その日の予定が、書かれていた。

一限の前に、確認すべき項目を、誠は、整理していた。

整理しながら、歩いていた。

歩いている途中、誠は、女子と、すれ違った。

真弓だった。

誠は、真弓のことを、知らなかった。

正確には、視界に入ったが、認識していなかった。

誠の脳は、その朝、ノートの整理に、集中していた。

視界に入ったすべての情報が、認識されるわけでは、ない。

真弓は、誠の視界の、周辺に、いた。

周辺の情報は、誠の脳では、優先度が、低かった。

低い優先度の情報は、認識されずに、流れていった。

誠は、真弓を、見ていなかった。

見ていない以上、誠の中に、真弓の像は、作られなかった。

これが、二人の、最初のすれ違いだった。

真弓のなかには、誠の像が、作られた。

誠のなかには、真弓の像が、作られなかった。

非対称な、最初の認識が、二人の関係の、最初の構造に、なった。

最初の構造は、その後の三年間、ずっと、続いていく。

真弓は、ずっと、誠のことを、見ている。

誠は、真弓のことを、観察対象として、見るようになる。

でも、本当の意味で、お互いを、認識し合うことは、最後まで、なかった。

非対称さは、四月の、新学期の朝に、すでに、始まっていた。

Scene 01
四月の中頃 / 放課後の教室 / 真弓が誠の席に行く
真弓
真弓
あの、ちょっと、いい?
誠
誠は、ノートから、視線を上げた。
誠
何か。
真弓
真弓
数学の問題、ちょっと、教えてもらえないかな。
誠
どの問題。
真弓
真弓
真弓は、自分の教科書を開いて、誠の机に、置いた。
真弓
真弓
この、最後の問題。先生の説明、よく分からなくて。
誠
誠は、真弓の教科書を、見た。
誠
これは、二次関数の、最大値・最小値の問題だ。
真弓
真弓
うん。
誠
頂点を、計算する。頂点が、定義域のなかにあるかどうかで、最大値と最小値の場所が、変わる。
真弓
真弓
頂点って、どうやって、計算するの?
誠
平方完成だ。式を、二乗の形に、変形する。
誠
誠は、ノートの空いたページに、計算を書いて、真弓に、見せた。
真弓
真弓
あ、なるほど。
真弓
真弓
分かりやすい。ありがとう。
誠
分かれば、いい。
真弓
真弓
あなた、教えるの、上手だね。
誠
分かりやすく、伝えただけだ。
真弓
真弓
それが、上手ってことだよ。

真弓は、誠に、お礼を言って、自分の席に、戻った。

戻りながら、真弓の頭のなかで、誠の像が、また、少し、更新されていた。

「真面目な人」

「勉強が、できそうな人」

「あまり、人と話さない人」

「自分の世界を、持っている人」

「教えるのが、上手な人」

「素っ気ないけど、ちゃんと、答えてくれる人」

新しい項目が、誠の像に、足されていた。

足された項目は、最初の三秒で作られた像と、整合性が、取れていた。

「真面目な人なら、教えるのも、丁寧だろう」

「自分の世界を持っている人なら、素っ気なくても、悪意はないだろう」

真弓の頭のなかで、新しい情報は、最初の像に、合うように、解釈されていた。

これが、確証バイアスだった。

最初に作った像を、補強する情報だけを、選んで、取り込む。

合わない情報は、無視されるか、例外として処理される。

真弓は、その仕組みを、自覚していなかった。

自覚しないまま、誠の像は、真弓の中で、どんどん、固まっていった。

固まった像は、これから、真弓の判断の、基準に、なっていく。

基準は、最初の三秒と、何回かの会話で、ほとんど、決まっていた。

これからの三年間、真弓は、その基準で、誠を、見続けることになる。

本物の誠は、その基準の、向こう側に、いた。

でも、真弓は、本物の誠を、見ようと、しなかった。

見ようとする必要が、感じられなかった。

頭のなかの像で、十分だと、感じていた。

感じていることを、真弓は、自覚していなかった。

四月の終わり。誠の机の上のノートに、鉛筆だけで描かれた桜の絵がある。
四月の終わり。誠の机の上のノート。
ノートのページに、桜の絵が、描かれている。
色は、ない。鉛筆だけで、描かれた、桜の絵。

四月の終わり、ある放課後、真弓は、また、誠のクラスに、行った。

今度は、用事が、なかった。

用事はなかったが、誠の様子を、見てみたかった。

真弓は、誠のクラスのドアを、半分だけ、開けて、中を、見た。

誠は、自分の席で、ノートを、開いていた。

でも、勉強しているのではなかった。

誠は、ノートに、絵を、描いていた。

絵は、桜の絵だった。

色は、ついていなかった。

鉛筆だけで、描かれていた。

でも、その桜の絵は、真弓が、これまで見てきた、どの桜の絵よりも、鮮やかに、見えた。

色がないのに、鮮やかに見える、というのは、どういうことだろう、と真弓は、思った。

真弓は、しばらく、ドアの隙間から、誠の絵を、見ていた。

見ているうちに、誠が、ふと、視線を上げた。

真弓と、目が、合った。

真弓は、慌てて、ドアを、閉めようとした。

でも、閉める前に、誠が、口を、開いた。

「何か、用か」と誠は、言った。

真弓は、ドアを、閉めるのを、やめて、半分開けたまま、答えた。

「あ、ううん。ちょっと、覗いただけ。ごめんね」

誠は、何も言わなかった。

真弓は、誠の机に、近づいた。

近づいて、ノートの絵を、もう一度、見た。

「桜の絵、上手だね」と真弓は、言った。

誠は、しばらく、答えなかった。

そして、「そうか」とだけ、言った。

真弓は、その「そうか」が、誠なりの、お礼の言葉だと、気づいた。

気づいた瞬間、真弓のなかで、誠の像が、また、少しだけ、変わった。

「素っ気ないけど、心の中では、嬉しいと感じている人」

「ありがとう、と言わない人」

「でも、感謝の気持ちは、ある人」

新しい項目が、誠の像に、足された。

足された項目は、最初の三秒で作られた像と、また、整合性が、取れていた。

「自分の世界を持っている人なら、ありがとうの言葉は、最小限になるだろう」

「真面目な人なら、嬉しさを、表に出さないだろう」

真弓のなかで、誠の像は、ますます、固まっていった。

固まった像は、本物の誠と、似ていた。でも、別物だった。

似ているけれど、別物。

これが、勘違いの、最も危険な形だった。

完全に違う像だったら、いつか、本物との違いに、気づく。

でも、似ている像は、ずっと、本物だと、信じ込まれる。

真弓のなかの誠の像は、本物の誠と、似ていた。

だから、真弓は、ずっと、自分の像を、本物だと、信じ込んだ。

信じ込んだまま、三年間が、過ぎていく。

過ぎていく途中で、真弓は、何度も、自分の像と、本物との、ずれに、気づくことになる。

気づくたびに、真弓は、傷つく。

傷つきの正体は、勘違いだった。

でも、真弓は、それを、自分の勘違いとは、思わなかった。

誠が、変わった、と思った。

本当は、誠は、変わっていなかった。

真弓のなかの像が、現実の誠と、ずれていただけだった。

そのずれが、傷つきの正体だった。

でも、それを、真弓が、認識するのは、ずっとあとのことだった。

· · ·

誠は、真弓が、自分のクラスに、覗きに来たことを、観察した。

観察結果を、誠は、ノートに、書こうとして、書かなかった。

書くべき項目では、なかった。

誰かが、自分のクラスに、覗きに来ること自体は、よくあった。

友達が、誰かを呼びに来たり、用事のある子が、何かを聞きに来たり。

真弓も、その、よくある来訪者の一人だった、と誠は、判定した。

判定したあと、誠は、真弓のことを、特に、考えなかった。

誠の脳の中で、真弓は、まだ、特別な項目では、なかった。

「クラスメイトの一人」「数学を聞きに来た子」「桜の絵を、上手と言ってくれた子」

誠の脳の中で、真弓は、これらの、断片的な情報の、集まりだった。

断片的な情報を、誠は、まだ、一人の人間として、統合していなかった。

統合する必要を、感じていなかった。

誠の脳は、人間を、効率的に、処理する仕組みだった。

仕組みのなかでは、すべての人間を、深く理解する必要は、なかった。

必要なのは、必要なときに、必要な情報を、引き出せる、ということだった。

真弓に関する情報は、まだ、必要な量に、達していなかった。

達するまで、誠は、真弓を、断片のまま、保管していた。

保管されている真弓は、本物の真弓では、なかった。

でも、誠は、それで、十分だと、思っていた。

十分だと思っていることを、誠は、自覚していなかった。

これが、誠の、最初の、勘違いだった。

真弓は、誠を、勘違いした。

誠も、真弓を、勘違いした。

勘違いの方向は、二人で、違っていた。

真弓は、誠を、過大評価する方向に、勘違いした。

誠は、真弓を、軽視する方向に、勘違いした。

過大評価と軽視。

方向は反対だが、構造は、同じだった。

どちらも、本物の相手を、見ていなかった。

頭の中の像と、関わっていた。

これが、二人の、最初の関係だった。

最初の関係から、二人の三年間は、始まった。

Scene 02
五月の初め / 廊下 / すれ違い
真弓
真弓
あ、こんにちは。
誠
どうも。
真弓
真弓
あの、この前の数学の問題、テストに出たよ。
誠
そうか。
真弓
真弓
あなたのおかげで、解けたよ。
誠
解けるようになったのは、お前だ。俺は、説明しただけだ。
真弓
真弓
そういうの、いちいち、訂正するんだね。
誠
事実が、違うから。
真弓
真弓
事実、大事なんだ。
誠
事実は、誰にとっても、大事だ。
真弓
真弓
そうかな。私は、感謝の気持ちのほうが、大事だと思うけど。
誠
誠は、しばらく、答えなかった。
誠
……感謝の気持ちは、伝わっている。
真弓
真弓
え、本当?
誠
本当だ。
真弓
真弓
真弓は、笑った。
真弓
真弓
じゃあ、よかった。

真弓は、誠と別れたあと、廊下を、歩きながら、思った。

――やっぱり、誠は、いい人だ。

誠は、真弓が廊下を歩き去るのを、見送らなかった。ノートを、また、開いた。

「いい人」という判定は、真弓のなかで、確定した。

確定した判定は、これから、ずっと、真弓のなかで、誠を、見るときの、基準になる。

基準は、たった、何回かの、会話で、できあがった。

真弓は、その「いい人」という判定が、自分の頭のなかで、勝手に、組み立てられたものだ、ということを、自覚していなかった。

自覚しないまま、判定は、確証バイアスによって、補強され続けることになる。

これから、誠が、どんなに冷たい言葉を、言っても、真弓は、それを「いい人なのに、言い方が悪かっただけ」と、解釈する。

解釈の方向は、最初の判定によって、決まっていた。

判定が、優しい方向だったから、解釈も、優しい方向に、なる。

でも、優しい解釈は、本物の誠を、見えなくする。

本物の誠は、優しい人でも、冷たい人でも、なかった。

誠は、ただ、誠だった。

誠を、優しい人として見続けた真弓は、誠が、優しくない瞬間に、傷つく。

傷ついた瞬間、真弓は「誠は、変わった」と、思う。

でも、誠は、変わっていない。

変わったのは、真弓のなかの、誠の像と、本物の誠との、距離だった。

距離が、広がっていくたびに、真弓は、傷つく。

傷ついた真弓は、距離を、戻そうとする。

でも、戻し方を、真弓は、知らない。

知らないまま、真弓は、ずっと、誠の像を、修正できないでいる。

これが、勘違いの、最も静かな、進み方だった。

五月の中頃。新緑の見える教室で、誠が自分の机でノートを開いている。
五月の中頃。教室の窓から、新緑が見える。
誠は、自分の机で、ノートを開いている。
ノートには、新しいページが、開かれている。

五月の中頃のある日、誠は、自分のノートに、新しいページを、開いた。

ページの先頭に、誠は、こう書いた。

「真弓」

名前を、書いただけだった。

その下に、誠は、観察した内容を、書こうとした。

でも、書くべき内容が、まだ、十分に、集まっていなかった。

誠は、しばらく、ノートを、見つめていた。

見つめていて、誠は、ある決意を、固めた。

――この子のことを、観察してみよう。

「観察」という言葉を、誠は、自分の中で、使った。

観察するのは、誠の、自然な行動だった。

誠は、これまで、たくさんの人を、観察してきた。

観察した結果を、ノートに、まとめてきた。

真弓も、その観察対象の一人として、ノートに、記録される。

記録することに、悪意は、なかった。

誠は、観察を、誰かを傷つけるための行為だとは、思っていなかった。

むしろ、観察は、誰かを、深く理解するための、誠なりの、方法だった。

誠の世界では、観察と理解は、ほぼ、同義だった。

でも、真弓の世界では、違っていた。

真弓の世界では、観察は、距離を意味した。

距離を取ることは、相手を、信頼していないことを、意味した。

二人の世界の、定義の違いが、これから、何度も、二人を、すれ違わせる。

すれ違いの起点は、五月の、その日の、ノートの一ページ目に、すでに、書かれていた。

「真弓」という名前が、誠のノートに、書かれた瞬間、二人の物語は、本格的に、始まった。

誠は、その重さを、自覚していなかった。

真弓も、自分が、誰かのノートに、書かれていることを、知らなかった。

知らないまま、二人の三年間は、進んでいく。

進んでいく先に、たくさんの、すれ違いが、待っていた。

でも、その日、五月の中頃の、新緑の見える教室では、まだ、何も、始まっていない、ように、見えた。

始まっていないように見えて、すべてが、もう、始まっていた。

これが、勘違いの、最初の、最も大きな、特徴だった。

勘違いは、最初に作られる。

でも、最初に作られたことは、誰も、自覚しない。

自覚しないまま、勘違いは、その人の、判断の基準に、なっていく。

基準になったあとで、勘違いを、修正するのは、難しい。

難しいから、人は、勘違いのまま、関係を、続けていく。

続けた先で、何度も、ぶつかる。

ぶつかるたびに、自分が悪いと思ったり、相手が悪いと思ったりする。

でも、本当は、悪いのは、最初に作った勘違い、そのものだった。

勘違いに、気づかないかぎり、ぶつかりは、続いていく。

Scene 03
五月の終わり / 教室の前 / 短い会話
真弓
真弓
あなた、いつも、ノートに、何書いてるの?
誠
誠は、しばらく、考えた。
誠
いろいろだ。
真弓
真弓
いろいろって。
誠
勉強のことも、書く。それ以外のことも、書く。
真弓
真弓
それ以外って?
誠
観察したこと、とか。
真弓
真弓
観察したこと?
誠
人とか、出来事とか。気づいたことを、書いている。
真弓
真弓
人のことも、書くんだ。
誠
書く。
真弓
真弓
私のことも、書いてる?
誠
誠は、しばらく、答えなかった。
誠
……書いている。
真弓
真弓
えー、なんて書いてあるの?
誠
それは、見せられない。
真弓
真弓
気になるなあ。
誠
悪口は、書いていない。
真弓
真弓
じゃあ、いいか。

真弓は、誠と別れたあと、教室に戻りながら、思った。

――誠のノートに、私のことが、書いてある。

その事実が、真弓のなかで、温かい気持ちに、なった。

誰かのノートに、自分のことが、書かれている。

これは、誰かが、自分のことを、ちゃんと、見ていてくれている、という証拠のように、思えた。

真弓は、その温かさを、自分のなかに、迎え入れた。

迎え入れた瞬間、真弓のなかの誠の像は、また、少しだけ、変わった。

「私のことを、見ていてくれる人」

「私を、ノートに、書いてくれる人」

新しい項目が、誠の像に、足された。

足された項目は、真弓のなかで、誠を、特別な存在に、変えていった。

でも、誠の世界では、ノートに書くことは、特別なことでは、なかった。

誠は、たくさんの人を、ノートに書いていた。

真弓は、その、たくさんの中の、一人だった。

でも、真弓は、それを、知らなかった。

知らないまま、真弓は、自分が、誠にとって、特別な存在だ、と、思い込んでいった。

思い込みは、これから、何度も、真弓を、傷つけることになる。

傷つくたびに、真弓は、自分の思い込みを、修正できないでいる。

修正できないのは、最初の思い込みが、温かい気持ちに、繋がっていたからだった。

温かい気持ちを、手放したくなかった。

手放したくないから、思い込みを、保ち続けた。

保ち続けたまま、三年間が、流れていく。

これが、勘違いの、最も切ない、進み方だった。

勘違いは、悪いことばかりでは、なかった。

真弓に、温かい気持ちを、与えていた。

その温かさが、真弓の、十七歳の、毎日を、支えていた。

支えられたまま、真弓は、生きていく。

支えが、いつか、崩れるとは、思っていなかった。

でも、いつか、必ず、崩れる。

崩れる日は、まだ、先のことだった。

その日まで、真弓は、温かい気持ちを、抱えながら、誠と、関わり続ける。

· · ·

勘違いについて、もう少し、書いておく。

勘違いは、悪いものでは、ない。

人間が、社会で生きていくために、必要な、機能だ。

すべての人を、深く理解する時間は、誰にも、ない。だから、人は、勘違いで、関係を、始める。

勘違いの上に、関係を、積み上げていく。

積み上げていくうちに、勘違いの一部が、修正されていく。

修正されないまま、固定される部分も、ある。

固定された勘違いは、その人の、判断の基準に、なる。

判断の基準は、簡単には、変わらない。

変わらない基準のなかで、人は、関係を、続けていく。

続けるあいだ、何度も、勘違いと、本物との、ずれに、気づく。

気づくたびに、傷ついたり、混乱したりする。

でも、それも、関係の、一部だ。

勘違いがなければ、関係は、始まらない。

勘違いがあるから、関係は、ぶつかる。

ぶつかるから、関係は、深くなる。

深くなった関係は、勘違いの上に、立っている。

立っているのは、本物では、ない。

でも、本物に、近づいている。

近づいていくのが、関係の、進み方だった。

あなたが、もし、誰かのことを「こういう人だ」と、思い込んでいるなら、その思い込みを、責めなくていい。

思い込みは、関係を、始めるために、必要なものだった。

でも、ときどき、その思い込みを、ほどいてみてほしい。

ほどいてみると、本物のその人が、少しだけ、見えてくる。

少し見えてきた本物のその人は、思い込みより、複雑で、矛盾していて、深い人だ。

複雑で、矛盾していて、深い人と、関わることは、難しい。

でも、難しさのなかにこそ、本当の、繋がりが、ある。

真弓は、これを、知らなかった。

誠も、知らなかった。

知らないまま、二人は、お互いを、勘違いし続けた。

勘違いし続けた結果、二人は、決定的に、すれ違った。

でも、その始まりは、四月の、新学期の、廊下の、すれ違いだった。

すれ違ったときに、何かが、始まっていた。

始まっていたものを、二人は、自覚していなかった。

自覚しないまま、十七歳が、過ぎていく。

過ぎていく時間のなかで、二人は、何度も、お互いを、見直す機会が、あった。

機会のたびに、二人は、見直さなかった。

見直さなかったことが、二人の、選択だった。

でも、その選択を、二人は、自覚していなかった。

自覚しないまま、選んでいた。

選んだ結果が、二人の、十八年後に、待っていた。

でも、それは、まだ、ずっと先のことだった。

· · ·
誠の計算式 — 足し算(+)
最初の三秒(変数)+ その後の全情報(変数)= 分かった
…足された情報は、すべて、最初の三秒に、合うように、解釈される
勘違いを、足し算で考えてみる。

人は、最初の三秒で、相手の像を、頭のなかに、作る。これは、最初の入力だ。その後、新しい情報が、次々と、入ってくる。すべての入力を、足し合わせれば、その人のことを、分かったことに、なる。

でも、この式には、罠が、ある。

最初の三秒で作られた像は、その後の情報の解釈の、基準になる。新しい情報は、最初の像に、合うように、解釈される。合わない情報は、無視されるか、例外として処理される。

だから、足し算しているように見えて、実は、最初の像が、ずっと、固定されている。足された情報は、最初の像を、補強するだけだ。最初の像が、修正されることは、ほとんど、ない。

これが、確証バイアスの構造だった。

足し算は、本来、関係を、豊かにするための演算だ。新しい情報を、足すことで、その人のことが、もっと、見えてくる。でも、最初の像が、固定されていると、足し算は、機能しない。足しても、足しても、最初の像は、変わらない。

真弓は、この計算式の中で、誠と、関わり始めた。誠も、同じ計算式で、真弓を、観察し始めた。

二人とも、最初の像を、自覚せずに、固定した。固定した像のまま、三年間、過ごすことになる。

過ごしたあとで、二人は、自分の像と、本物との、ずれに、気づく。気づいたとき、二人は、後悔するかもしれない。もっと早く、最初の像を、ほどいておけばよかった、と。

でも、勘違いに気づくのは、いつも、遅い。遅くても、気づかないより、ましだった。遅く気づいて、人は、十八年後に、ようやく、本物の相手に、近づく。

足し算は、関係を、豊かにする可能性を、持っている。でも、最初の像を、ほどく勇気がなければ、その可能性は、開かない。

勇気を、持つこと。最初の像を、疑うこと。疑った上で、新しい情報を、素直に、足していくこと。

これが、勘違いを、ほどいていく、唯一の、方法だった。
· · ·
References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・ハロー効果 (Halo Effect)
  • ・確証バイアス (Confirmation Bias)
· · ·
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