第9章 争う —— 双方が損をするとわかっていても、止まらない — Portrait of Identity

争う

CONFLICT
×
十二月後半の放課後の教室。曇り空からの薄い光。 誠の机の前に、真弓が立っている。 二人とも、まだ、何も言っていない。
十二月後半の放課後の教室。曇り空からの薄い光。
誠の机の前に、真弓が立っている。
二人とも、まだ、何も言っていない。

争いは、勝ちたい人同士のあいだでは、起きない。

本気で勝ちたいなら、戦略を立てる。冷静に、相手の弱点を突く。感情を抑える。それが、勝つための、最短の道だ。

でも、人と人の争いは、たいてい、勝つための争いではない。

失いたくないものを、守るための争いだ。

失いたくないものは、人それぞれ違う。プライドだったり、関係だったり、自分の正しさだったり。失いたくないものを守ろうとして、人は、攻撃する。攻撃は、防衛の、別名だ。

だから、争いの場面で、人が言う言葉は、よく見ると、ほとんどが「自分を守るための言葉」だ。「相手を倒すための言葉」では、ない。

でも、守るための言葉が、結果として、相手を、深く、傷つける。

守りたかっただけなのに、傷つける。

傷つけられた相手も、自分を守るために、また、攻撃する。

こうして、双方が、自分を守るために、お互いを傷つけ合う。

これが、人と人の争いの、構造だ。

双方が、損をすると、分かっていても、止まらない。

なぜなら、止めることは、自分を守らないことを、意味するからだ。

真弓と誠は、十二月のある日の放課後、その構造の中に、二人で、足を踏み入れた。

踏み入れた瞬間、二人は、もう、戻れなかった。

戻れないことが、二人とも、分かっていた。

分かっていながら、止まらなかった。

止まらなかったから、二人の関係は、その日、決定的に、壊れた。

壊れたあとで、二人は、それぞれ、自分の中で、もう一度、その日のことを、再生し続けることになる。

再生しても、結果は、変わらなかった。

変わらないことが、ますます、痛かった。

· · ·

第8話の「答えられない」のあと、二週間が、経っていた。

真弓は、その二週間、誠と、ほとんど話していなかった。

挨拶は、していた。すれ違うときに、軽く、頭を下げて。

でも、それ以上のことは、していなかった。

真弓は、自分で決めた距離を、守っていた。

守っていることが、楽だった。

守っていることが、悲しかった。

楽と悲しさは、矛盾しているはずだった。

でも、真弓の中で、それは、同時に、存在していた。

そして、ある放課後、真弓は、誠の教室に、行った。

行った理由を、真弓自身、よく分からなかった。

分からないまま、行った。

行った先で、何が起きるか、真弓は、予測していなかった。

予測していなかったから、起きたことに、対応できなかった。

· · ·

誠は、自分の席で、ノートを広げていた。

真弓が、誠の席に、近づいた。

誠は、視線を上げた。

「珍しいな」と誠は言った。

「うん」と真弓は答えた。

真弓は、誠の机の向かいに、座らなかった。

立ったまま、誠の机を、見下ろしていた。

誠の机の上には、ノートが、開かれていた。

真弓は、ノートに書かれている文字を、ふと、見た。

誠は、慌てて、ノートを閉じようとした。

でも、間に合わなかった。

真弓は、ノートに書かれている、ある一行を、見てしまった。

「真弓は、感情で判断する人間だから、合理的な対話が、難しい」

真弓は、その一行を、見た。

見た瞬間、真弓の中で、何かが、爆発するように、湧き上がった。

湧き上がったものは、悲しみではなかった。

怒りだった。

真弓が、自分の中で、怒りという感情を、はっきりと認識したのは、これが、初めてだった。

真弓は、これまで、怒りを、表に出さずに生きてきた。怒りを、悲しみや、諦めに、翻訳して処理してきた。

でも、その日、真弓は、翻訳を、やめた。

怒りを、怒りのまま、誠に、ぶつけた。

Scene 01
放課後の教室 / ノートが見えた瞬間
真弓
真弓
今、書いてあったの、私のこと?
誠
誠は、ノートを、机の中に、しまった。
誠
……お前が見るとは、思っていなかった。
真弓
真弓
そういう問題じゃない。
誠
どういう問題だ。
真弓
真弓
あなたは、私のことを、ずっと、そういう目で、見てきたんだね。
誠
そういう目、というのは、どういう意味だ。
真弓
真弓
「感情で判断する人間」って、書いてた。
誠
それは、観察結果だ。
真弓
真弓
観察結果って、何。
誠
これまでの会話のデータから、お前が、感情で判断することが多い、という観察を得た。それを、ノートに記録しただけだ。
真弓
真弓
記録、って。
誠
何が問題なんだ。
真弓
真弓
私を、観察対象として、見てきたってことが、問題なの。
誠
俺は、誰のことも、観察対象として見ている。
真弓
真弓
麻美ちゃんも?
誠
麻美も、観察対象だ。誰でも、そうだ。
真弓
真弓
それが、おかしいって、思わないの?
誠
おかしくない。観察することと、相手を尊重することは、両立する。
真弓
真弓
両立しないよ。観察してる時点で、距離がある。距離があったら、本気で、相手のこと、分かろうとしてないってこと。
誠
距離があるからこそ、客観的に、相手を理解できる。
真弓
真弓
理解じゃない、それは。分析だよ。
誠
分析と理解は、同じだ。
真弓
真弓
違うよ。全然、違う。

真弓の声は、震えていた。

でも、引き返さなかった。

真弓は、これまで、感情を、誠の前で、出すことを、避けてきた。誠が、感情を嫌うから、真弓は、自分の感情を、隠してきた。隠して、合わせてきた。

でも、その日、真弓は、隠すのを、やめた。

隠している自分を、見るのが、もう、嫌だった。

真弓は、誠の机に、両手をついた。

誠は、真弓の手を、見た。

真弓の指先は、白くなっていた。それくらい、強く、机を、押さえていた。

誠は、その手を見て、ある分析を、しようとした。

分析しようとした瞬間、真弓が、口を開いた。

Scene 02
同じ放課後 / 衝突の最高点
真弓
真弓
ねえ、誠は、いつもそう。
誠
何が、いつもなんだ。
真弓
真弓
あたしが悪いみたいに、言う。
誠
悪いとは、言っていない。
真弓
真弓
「合理的な対話が難しい」って、書いてたじゃない。それって、私が悪いって、ことでしょ?
誠
悪い、という評価ではない。事実の記述だ。
真弓
真弓
じゃあ、誰のせいなの?対話が難しいのは、誰のせいなの?
誠
誠は、しばらく、ペンを、机の上で、転がした。
誠
そういう性格だからだ。
真弓
真弓
真弓は、息を、止めた。
真弓
真弓
……今、なんて言った?
誠
そういう性格だからだ、と言った。お前が、感情で判断する性格だから、対話が難しい。それは、性格の問題だ。
真弓
真弓
性格の問題、って。
誠
事実を述べているだけだ。
真弓
真弓
あなた、自分のことは、性格の問題だって、思わないの?
誠
どういう意味だ。
真弓
真弓
対話が難しいのは、私の性格の問題だって、あなたは言った。じゃあ、あなたの性格は、関係ないの?
誠
俺は、合理的に対話している。
真弓
真弓
合理的な対話を、誰が決めたの?合理的じゃない対話は、対話じゃないって、誰が決めたの?
誠
誠は、一瞬、答えに、詰まった。
誠
……一般的な、論理学の定義だ。
真弓
真弓
論理学の定義?人と人が話すのに、論理学の定義を、持ち出すの?
誠
対話の質を、保つために、必要だ。
真弓
真弓
そうやって、ずっと、自分のルールに、私を当てはめてきたんだね。
誠
当てはめてはいない。観察しただけだ。
真弓
真弓
その「観察」って言葉、もう、聞きたくない。

真弓は、机から、両手を離した。

離した手は、震えていた。

でも、その震えは、第3話の夜の震えとは、違うものだった。

第3話の震えは、自分が傷ついたことの、震えだった。

第9話の震えは、怒りの震えだった。

真弓は、自分が、誠に、本気で怒っていることを、自分でも、確認した。

確認して、真弓は、口を開いた。

「もう、いい」

真弓は、そう言った。

「私は、ずっと、あなたが、いつか、変わってくれるかもしれないって、思ってた」

「変わってほしいって、言ったことは、ない。一度も。でも、心のどこかで、期待してた」

「あなたが、私を、観察対象としてじゃなく、ただの、私として、見てくれる日が、来るかもしれないって」

「でも、そんな日は、来ないんだね」

「あなたは、これからも、私を、観察し続ける」

「私が、感情で判断する人間だってことを、ノートに記録し続ける」

「それが、あなたの、私への、関わり方なんだね」

「分かった」

「もう、いい」

真弓は、その言葉を、淡々と、誠に、伝えた。

淡々と話したのは、もう、感情を、ぶつけ終わったからだった。

怒りは、出した。出したことで、楽になった。

楽になったあとの真弓は、もう、誠と、対話することを、諦めていた。

「じゃあ、もう、私のこと、観察しなくていいから」と真弓は付け加えた。

「あなたのノートから、私のこと、消してほしい」

「それが、最後の、お願い」

真弓は、そう言って、誠の机の前から、離れた。

離れる前に、真弓は、誠の顔を、もう一度、見た。

誠の顔は、青ざめていた。

真弓は、初めて、誠が青ざめている顔を、見た。

でも、もう、それを、解釈する気は、なかった。

解釈すれば、また、期待が、生まれる。

期待は、もう、生まれてはいけないものだった。

真弓は、振り返らずに、教室を、出た。

失望値、9。

でも、その9は、もう、悲しみだけではなかった。

その9には、真弓の、解放が、混じっていた。

解放されたのは、誠への、最後の期待からの、解放だった。

その夜の誠の部屋。机の上のノート。 誠が、真弓のページを、開いている。 ペンを持っているが、何も、書けずにいる。
その夜の誠の部屋。机の上のノート。
誠が、真弓のページを、開いている。
ペンを持っているが、何も、書けずにいる。

その夜、誠は、自分の部屋で、ノートを開いていた。

真弓のページを、開いていた。

真弓のページには、これまで、誠が、観察した結果が、たくさん、書かれていた。

「真弓は、感情で判断する」

「真弓は、論理よりも、感情を、優先する」

「真弓は、合理的な対話が、苦手だ」

「真弓の発言は、しばしば、感情に支配されている」

誠は、それらの記述を、しばらく、見ていた。

見ていて、誠は、初めて、ある違和感を、覚えた。

これらの記述は、すべて、真弓を「ある特定の性格を持った人間」として、描いていた。

でも、人は、性格だけで、できているわけではない。

誰でも、状況によって、感情で判断するときも、論理で判断するときも、ある。

真弓も、たぶん、そうだった。

真弓が、感情で判断していた場面は、確かに、あった。でも、論理で判断していた場面も、あった。

誠は、それらを、両方、観察していた。

でも、誠が、ノートに記録したのは、感情で判断した場面だけだった。

論理で判断した場面は、ノートには、書かれていなかった。

誠は、その偏りに、気づいた。

気づいてから、誠は、自分に問いかけた。

なぜ、自分は、真弓の「感情で判断する場面」だけを、記録してきたのか。

その問いに、誠は、答えを、持っていなかった。

持っていなかったが、考えた末に、ある仮説に、辿り着いた。

「俺は、真弓を、感情で判断する人間として、描きたかったのかもしれない」

誠は、その仮説を、ノートに、書こうとした。

書こうとして、ペンが、止まった。

書いたら、確定する。確定すると、まずい。

誠の中で、第6話から続く、「まずい」の感覚が、その夜、最も強く、立ち上がった。

誠は、ペンを、置いた。

そして、自分のノートを、見つめた。

真弓は、最後に「私のこと、ノートから消してほしい」と言っていた。

消そうと思えば、消せた。

新しいノートに、真弓のページなしで、書き始めればよかった。

でも、誠は、消さなかった。

消したら、自分の中の、何かも、一緒に、消えてしまうような気が、した。

消えてしまったら、もう、戻らない。

戻らないことが、誠には、怖かった。

怖い、という感情を、誠が、自分で認識したのは、これが、初めてだった。

誠は、その感情を、しばらく、抱えていた。

抱えていると、目から、涙が、出てきた。

誠は、自分が、泣いていることに、しばらく、気づかなかった。

気づいてから、誠は、自分の頬を、触った。

頬は、濡れていた。

涙は、確かに、出ていた。

誠は、最後に、自分が泣いたのが、いつだったか、思い出せなかった。

子どものころ以来、泣いた記憶が、なかった。

大人になってから、初めて、誠は、泣いていた。

泣きながら、誠は、ノートを、抱えた。

ノートを、捨てなかった。

真弓のページを、消さなかった。

残した。

残したまま、誠は、その夜、深く、眠れなかった。

誠の傷の蓄積、4件目。

でも、その4件目は、これまでの3件とは、違っていた。

これまでの3件は、誠が、自分の傷だと、認識していなかった傷だった。

4件目は、誠が、初めて、自分の傷だと、認識した傷だった。

認識したことで、傷は、ずっと、深く、誠の中に、残ることになった。

· · ·

誠が、夜のあいだ、考え続けていたあいだ、真弓も、自分の部屋で、ベッドに横になっていた。

でも、真弓は、誠のことを、考えていなかった。

真弓は、自分のことを、考えていた。

「私、今日、怒った」

「初めて、ちゃんと、怒った」

「怒ることは、悪いことじゃなかった」

「怒りを、出したら、楽になった」

真弓は、自分の中の、新しい発見を、整理していた。

怒りという感情を、これまで、真弓は、悪いものとして、扱ってきた。怒ることは、人を傷つけることだと、思っていた。だから、怒らないように、生きてきた。

でも、その日、真弓は、怒った。

怒って、誠を、たぶん、傷つけた。

傷つけたかもしれないけど、それは、それで、よかった。

傷つけたことを、後悔していなかった。

後悔していないことを、真弓は、自分で、確認した。

確認して、真弓は、自分が、変わったことを、感じた。

これまでの真弓は、誰かを傷つけることを、何よりも、恐れてきた。

でも、その日の真弓は、誰かを傷つけても、自分を守ることを、選べた。

これは、成長だった。

でも、悲しい成長でもあった。

真弓は、その夜、その悲しい成長を、自分の中に、迎え入れた。

迎え入れたあとで、真弓は、ようやく、深く、眠った。

第3話以来、真弓が、深く眠れたのは、これが、初めてだった。

反芻は、その夜、止まった。

怒りを、出したことで、止まった。

でも、止まったのは、真弓のほうだけだった。

誠の中では、その夜から、新しい反芻が、始まっていた。

真弓のページを、見つめながら、誠は、第4話で真弓が経験したことを、本格的に、自分のものとして、経験し始めていた。

誠の計算式 — 掛け算(×)
原因 × 性格 = 相手の問題
…自分の性格は、計算式から、除外されている
誠は、争いの場面で、ある特殊な計算式を、使っていた。

相手の行動の原因を考えるとき、誠は、相手の「性格」に、それを帰属させていた。「真弓は、感情で判断する人間だ。だから、対話が難しい」。これは、原因と結果を、相手の性格に、紐づけて掛け算する、という構造だった。

でも、この計算式には、決定的な、抜けがあった。自分の性格が、計算式の中に、入っていなかった。

対話が難しいのは、本当に、相手の性格だけが原因なのか。自分の性格は、関係ないのか。誠は、自分の性格を、計算式の外に、置いていた。

相手の行動は、相手の「性格」のせい。自分の行動は、自分の「状況」のせい。

この、不公平な計算式を、誠は、無意識に、使っていた。

相手の行動を、性格に紐づければ、相手は変わらない。変わらない相手のせいで、対話が難しい。だから、自分は、悪くない。自分の行動を、状況に紐づければ、自分は、その時々の状況に、合理的に対応しているだけ。だから、自分は、悪くない。

どちらの場合も、自分は、悪くない。自分が、悪くないということは、自分は、変わらなくていいということ。変わらなくていいということは、自分の構造を、守れるということ。

誠は、この計算式で、自分の構造を、守ってきた。守った代わりに、真弓を、失った。

失ってから、誠は、初めて、計算式の歪みに、気づいた。気づいたが、もう、遅かった。

真弓は、計算式の外に、出ていった。出ていった真弓を、誠は、追いかけられなかった。追いかける方法を、誠は、知らなかった。

知らないまま、誠は、ノートのなかに、真弓のページを、抱え続けた。抱え続けることが、唯一、誠にできる、真弓への、応答だった。

その応答は、真弓には、届かなかった。届かなかったが、誠の中では、確かに、存在し続けた。

存在し続けたものは、十八年後、誠の中で、別のかたちで、立ち上がる。その立ち上がりが、誠の人生を、もう一度、動かすことになる。でも、それは、ずっと先の話だった。
Scene 03
数日後の朝 / 校門の前 / 短いすれ違い
誠
おはよう。
真弓
真弓
真弓は、誠を見て、軽く頭を下げた。声は、出さなかった。
誠
この前のこと、考えた。
真弓
真弓
うん。
誠
俺の言い方が、悪かったかもしれない。
真弓
真弓
言い方の問題、じゃないよ。
誠
じゃあ、何の問題だ。
真弓
真弓
あなたが、私を、ずっと、観察対象として、見てきたっていうことが、問題だった。
真弓
真弓
でも、もう、いいよ。
真弓
真弓
あなたは、あなたで、生きていけばいい。私は、私で、生きていく。
誠
誠は、何か言おうとして、言葉が、出てこなかった。
真弓
真弓
じゃあ、また。
真弓
真弓
真弓は、誠の前を、通り過ぎた。振り返らなかった。
誠
誠は、校門の前で、しばらく、動かなかった。

誠は、その朝、長いあいだ、校門の前に立っていた。

真弓の「あなたは、あなたで、生きていけばいい。私は、私で、生きていく」という言葉が、頭の中で、再生されていた。

これは、別れの言葉だった。

誠の脳内では、その認識が、即座に、確定した。

確定したが、誠は、それを、受け入れられなかった。

誠の脳の中には、「別れる」という結論を、受け入れる準備が、できていなかった。

誠は、これまで、人と「別れる」という経験を、ほとんどしていなかった。

誠の人生では、人との関係は、「ある」か「ない」かの、二択だった。

「ある」関係が、「ない」関係に、移行する、という途中過程を、誠は、経験したことがなかった。

でも、真弓との関係は、まさに、その途中過程に、入っていた。

「ある」だったものが、「ない」になりつつあった。

その移行を、誠は、止めることが、できなかった。

止め方を、知らなかった。

誠は、その日、初めて、「自分には、知らないことがたくさんある」という事実を、強く、認識した。

これまでの誠は、知らないことを、調べて、知っていく、というプロセスを、自然に、行ってきた。

でも、人と人の関係について、誠は、調べる相手が、いなかった。

本にも、書いていなかった。

真弓に、聞けば、教えてくれたかもしれない。

でも、真弓は、もう、答える気が、なかった。

真弓に聞けない以上、誠は、自分で、考えるしかなかった。

でも、考える方法を、誠は、知らなかった。

知らないまま、誠は、校門の前に立ち続けていた。

朝の冷たい風が、誠の頬を、撫でていた。

誠は、その風が、いつもより、冷たく感じることに、気づいた。

気づいてから、誠は、自分の身体が、震えていることに、気づいた。

震えている理由を、誠は、考えなかった。

考えると、その震えの正体が、見えてしまうような、気がした。

誠は、目を、閉じた。

閉じても、頭の中では、真弓の最後の言葉が、再生され続けていた。

「あなたは、あなたで、生きていけばいい」

「私は、私で、生きていく」

「じゃあ、また」

真弓の「じゃあ、また」は、本当の「また」では、なかった。

でも、誠は、その「じゃあ、また」を、本当の「また」だと、自分に、思い込ませることにした。

思い込まないと、その朝の冷たさが、もっと、深く、誠を、刺すような、気がした。

これも、自分への嘘だった。

誠は、また、嘘の上に、嘘を、重ねた。

真弓は、その朝、校舎に入ってから、誠のことを、考えなかった。

重ねた嘘の中で、誠は、その日、教室に、入った。

入ってから、誠は、ノートを開いた。

そして、真弓のページに、新しい一行を、書いた。

「真弓は、もう、観察対象から、外れた」

書いて、誠は、ノートを、閉じた。

外れた、と書いたが、誠の中では、外れていなかった。

外れていないことを、誠は、自分で、知っていた。

知っていたが、書いた言葉のほうを、信じることにした。

これも、自分への嘘だった。

誠は、もう、何度目かの、自分への嘘を、ついていた。

嘘のレイヤーは、誠の中で、どんどん、厚くなっていた。

厚くなったレイヤーは、十八年、剥がされないことになる。

剥がす日が、来るとしたら、それは、ずっと先のことだった。

三学期の初め。誠と真弓は、もう、ほとんど、話していない。 廊下ですれ違っても、軽く、頭を下げるだけ。 二人の距離は、もう、戻らない場所にある。
三学期の初め。誠と真弓は、もう、ほとんど、話していない。
廊下ですれ違っても、軽く、頭を下げるだけ。
二人の距離は、もう、戻らない場所にある。

三学期に入って、誠と真弓は、ほとんど、話さなくなっていた。

挨拶は、していた。すれ違うときに、軽く、頭を下げる。

でも、それ以上のことは、していなかった。

真弓は、自分のグループの中で、いつも通り、笑っていた。

誠は、自分の席で、いつも通り、ノートを広げていた。

二人は、もう、別々の世界に、いた。

同じ学校という、同じ建物の中にいながら、二人は、別々の世界に、いた。

その「別々の世界」は、卒業まで、続くことになる。

続くだけではなく、卒業のあとも、続くことになる。

続く期間は、十八年、だった。

十八年のあいだ、二人は、それぞれの世界の中で、それぞれに、生きていく。

真弓は、自分の感情を、誰にも見せずに、自分の中で、抱え続ける。

誠は、自分の感情を、自分にも見せずに、ノートの中に、閉じ込め続ける。

二つの抱え方は、まったく違っていた。

でも、どちらも、誰にも、届かなかった。

届かなかったまま、二人は、別々に、年を取っていく。

年を取りながら、二人は、ふと、思い出すことがある。

あの日の放課後の教室。

真弓の怒り。

誠の沈黙。

「そういう性格だからだ」という、誠の一言。

「あなたは、あなたで、生きていけばいい」という、真弓の一言。

二人とも、その日のことを、忘れない。

忘れられないことが、二人の関係の、最も、本質的な姿だった。

関係は、終わっていた。

でも、終わった関係は、消えなかった。

消えないまま、二人の中に、残った。

残ったものを、誠は、十八年後、ノートに書き直すことになる。

書き直したノートを、桐生に渡すことになる。

真弓は、自分の手紙を、引き出しの奥に、しまい続けることになる。

しまい続けた手紙は、十八年後も、そこに、残っている。

残っていることを、誠は、知らない。

真弓も、誰にも、それを、言わない。

これが、二人の、争った日の、結末だった。

· · ·

争うことについて、もう少し、書いておく。

争いは、悪いものではない。

争うことで、人は、自分が、本当に守りたかったものを、知る。

真弓が、その日、誠に、ぶつけた怒りは、真弓の、自分への誠実さの、証だった。

誠が、その日、真弓に向けた言葉は、誠の、自分の構造を守るための、必死の防衛だった。

どちらも、悪くなかった。

どちらも、自分を守ろうとしていた。

でも、自分を守るために、お互いを、傷つけ合った。

傷つけ合うことを、避けるためには、争わないことが、必要だ。

でも、争わないことは、自分を守らないことを、意味する場合がある。

自分を守るためには、争うしかない場面がある。

その場面で、何を選ぶか。

自分を守るために、争うのか。

関係を守るために、自分を譲るのか。

真弓は、自分を、選んだ。

誠は、自分の構造を、選んだ。

二人とも、自分を、選んだ。

選んだ結果、関係は、終わった。

でも、二人とも、自分を、失わなかった。

これは、敗北ではなかった。

これは、二人が、それぞれ、自分の人生を、生きていくための、避けられない通過点だった。

あなたが、もし今、誰かと、争っているなら、その争いを、悪いものとして、責めなくていい。

争いは、あなたが、何かを、守ろうとしている、証だ。

守りたいものが、何なのか、争いの中で、見えてくる。

見えてきたものを、見た上で、それを、守るのか、手放すのかを、選ぶ。

選んだ結果が、関係の継続でも、終わりでも、それは、あなたの、誠実な選択だ。

真弓は、その日、自分の感情の輪郭を、知った。

誠は、その日、自分の構造の限界を、薄く、感じ始めた。

二人とも、争うことで、何かを、得ていた。

得たものを、引き換えに、関係を、失った。

関係と引き換えにしても、得るに値するものが、ある。

それは、自分自身、というものだ。

あなたには、自分自身を、関係よりも、大切にしてほしい。

これが、真弓から、十八年後のあなたへの、六つ目のメッセージだ。

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References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・損失回避 (Loss Aversion)
  • ・根本的帰属の誤り (Fundamental Attribution Error)
· · ·
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