第8章 だます —— 自分についた嘘を、自分が信じる — Portrait of Identity

だます

DECEIVE
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十一月の放課後の教室。暮れかけた夕日が机の上に長い影を落としている。誠と真弓が向かい合って座っている。二人のあいだに開いたノートが一冊ある。
十一月の放課後の教室。暮れかけた夕日が、机の上に長い影を落としている。
誠と真弓が、向かい合って座っている。
二人のあいだに、開いたノートが、一冊。

人は、自分につく嘘を、最も信じる。

誰かに嘘をつかれたら、人は、それを見抜こうとする。表情を観察する。話の矛盾を探す。声のトーンの変化を聞く。他人の嘘には、人は、警戒する。

でも、自分につく嘘には、警戒しない。

「私は、本当は、こう感じている」と、自分の心が言っているのに、頭は、それを別の言葉に翻訳する。「いや、本当は、そうじゃない」「これは、たぶん、こういう意味だ」「私は、そんなに弱くない」

翻訳されたあとの言葉が、自分の感情として、固定される。本当の感情は、翻訳の下に、押し込められる。

これが、自分への嘘の、構造だ。

なぜ、人は、自分にだけ、こんなに簡単に、嘘をつくのか。

それは、自分の感情と、自分の行動が、矛盾したときに、どちらかを変えなければ、心が苦しいからだ。感情を変えるのは、難しい。だから、感情のほうの「解釈」を変える。解釈を変えれば、行動と矛盾しなくなる。矛盾しなくなれば、楽になる。

楽になることと引き換えに、本当の感情が、見えなくなる。

真弓は、その仕組みの中に、長く、いた。

誠は、その仕組みを、知らなかった。

知らないまま、誠も、その仕組みに、足を踏み入れることになる。

それは、十一月のある放課後の、たった一回の問いから、始まった。

真弓の問いだった。

誠の沈黙だった。

二人とも、その瞬間まで、認めてこなかったものに、初めて、触れた瞬間だった。

· · ·

十一月の中頃、放課後、真弓は、誠の教室に、行った。

第6話で、真弓は、誠の定位置を「同じ学校にいるが、共有はしない人」と決めた。第7話で、真弓は、誠への期待の根の深さを、もう一度、確認した。

その上で、真弓は、誠の教室に、行った。

行った理由を、真弓自身、よく分からなかった。

ただ、誠と、もう一度、ちゃんと、話したかった。

「ちゃんと話す」が、何を意味するのか、真弓には、明確には、分からなかった。

分からないまま、真弓は、誠の教室の前に、立っていた。

誠は、いつものように、自分の席で、ノートを広げていた。

真弓は、誠の席に、近づいた。

誠は、真弓に気づいて、視線を上げた。

「珍しいな」と誠は言った。

「うん。話したいことがあって」と真弓は答えた。

誠は、ペンを置いた。真弓のために、向かいの席を、空けた。

真弓は、その向かいの席に、座った。

座って、しばらく、何も言わなかった。

誠も、急かさなかった。

夕日が、教室の机に、長い影を落としていた。

真弓は、自分のリュックから、白い封筒を、取り出した。

封筒を、誠の前の机に、置いた。

「これ、何だ」と誠は聞いた。

「手紙」と真弓は答えた。

「読まないで」と真弓は付け加えた。

「読まないなら、なぜ、置く」と誠は聞いた。

「私が言いたいことが、書いてある。でも、読まれたら、困る」と真弓は答えた。

「意味が分からない」と誠は言った。

「私にも、分からない」と真弓は答えた。

誠は、白い封筒を、見ていた。

真弓も、同じ封筒を、見ていた。

二人とも、しばらく、黙っていた。

そして、真弓は、口を開いた。

Scene 01
放課後の教室 / 二人だけ / 真弓の問い
真弓
真弓
ねえ、聞いていい?
誠
何。
真弓
真弓
あなた、私のこと、どう思ってる?
誠
誠は、しばらく、真弓の顔を見ていた。
誠
どう、というのは、何の質問だ。
真弓
真弓
そのままの意味だよ。
誠
そのままの意味では、答えられない。
真弓
真弓
なんで?
誠
「どう思っているか」という質問は、要素が多すぎる。性格の評価か、関係性の定義か、感情の有無か、信頼度か。質問の対象を、特定してくれ。
真弓
真弓
……全部、知りたい。
誠
誠は、ペンを、机の上で、転がした。
誠
性格は、悪くないと思う。話していて、苛立つことは、あまりない。
真弓
真弓
関係性は?
誠
クラスメイトではないが、同じ学校の生徒。話す機会のある相手。
真弓
真弓
それだけ?
誠
それだけ、ということになる。
真弓
真弓
じゃあ、感情は?
誠
誠は、ペンの動きを、止めた。
誠
……今は、答えられない。
真弓
真弓
なんで?
誠
分析が、終わっていない。
真弓
真弓
分析しないと、感情、分からないの?
誠
分析しないと、自分の感情を、誤って報告するリスクがある。
真弓
真弓
誤ってもいいから、今、答えて。
誠
誠は、しばらく、机の上のペンを、見ていた。
誠
……今は、答えられない。

真弓は、誠の二度目の「今は、答えられない」を、聞いた。

聞いた瞬間、真弓の中で、ある音が、聞こえた気がした。

パキッ、と何かが、割れる音だった。

その音は、外側からではなく、真弓の中の、深いところから、聞こえた。

真弓は、その音を、聞き取った。

そして、思った。

――今、何かが、割れた。

割れたのが何なのか、真弓には、明確には、分からなかった。

でも、割れたという事実は、はっきりと、感じられた。

真弓は、誠の机の上の、白い封筒を、見つめた。

そして、封筒に、手を伸ばした。

「これ、持って帰る」と真弓は言った。

「読まれたら困るんだろう」と誠は言った。

「もう、読まれなくても、いい」と真弓は答えた。

「もう、読まれることが、あなたが、私のことを、分かってくれることを意味してたから。でも、分かってもらえないことが、もう、はっきりしたから、読まれる必要も、ない」

真弓は、そう言って、封筒を、リュックに戻した。

誠は、何も、言わなかった。

真弓は、リュックを背負って、立ち上がった。

「ありがとうね、答えてくれて」と真弓は言った。

「答えてないだろう」と誠は言った。

「答えなかったことが、答えだから」と真弓は言った。

誠は、その言葉に、何も、返せなかった。

真弓は、教室を出た。

出るときに、振り返らなかった。

誠は、机の上に転がしたペンを、見ていた。

夕日は、もう、ほとんど、教室から消えていた。

その夜、真弓の部屋。机の上に白い封筒。真弓は封筒を開けて中の便箋を取り出している。書いてあった文字を自分でもう一度読んでいる。
その夜、真弓の部屋。机の上に、白い封筒。
真弓は、封筒を開けて、中の便箋を、取り出している。
書いてあった文字を、自分でもう一度、読んでいる。

その夜、真弓は、自分の部屋で、白い封筒を、開けた。

中には、便箋が、一枚、入っていた。

真弓は、その便箋を、自分でもう一度、読んだ。

書いてあった文字は、こうだった。

「あなたのことが、好きでした」

「過去形で書くのは、もう、終わった気持ちだからじゃない」

「これから先も、たぶん、好きでい続けるけど、未来形で書くのは、なんとなく、怖かったから」

「でも、これは、伝える必要のない気持ちだった、と今、思いました」

「あなたは、私のことを、たぶん、ずっと、ただのクラスメイトの一人として、見ていた」

「それは、悪いことじゃない。あなたは、ただ、あなたなだけだから」

「だから、この気持ちは、私の中だけに、しまっておきます」

「卒業まで、一緒の学校にいるけど、もう、深く話すことは、しないかもしれません」

「でも、最後に、ちゃんと、お別れの挨拶は、したいから」

「最後の日に、また、声をかけさせてください」

「ありがとう。これまでの、いろんな話、ぜんぶ」

真弓は、自分の手紙を、読み終わった。

読み終わって、便箋を、封筒に、戻した。

戻して、机の引き出しに、しまった。

しまって、しばらく、机の前に座っていた。

真弓は、思った。

――この手紙、渡せなかった。

渡せなかった理由は、誠の「今は、答えられない」だった。

誠が、はっきりと「お前のことは、ただのクラスメイトだ」と言ってくれていたら、真弓は、この手紙を、渡していた。渡して、終わらせていた。それで、すっきりしていた。

でも、誠は、答えなかった。

答えないことで、誠は、真弓の手紙を、宙ぶらりんに、した。

宙ぶらりんになった気持ちは、行き場を、失った。

行き場を失った気持ちは、真弓の中で、また、再生され続けることになる。

真弓は、誠が「答えなかった」ことを、頭の中で、何度か再生してみた。

再生するうちに、真弓の中で、ある解釈が、立ち上がった。

「答えなかったのは、答えられない感情があるから、なのかもしれない」

「もしかしたら、誠は、私のことを、何かしら、感じてくれているのかもしれない」

「だから、答えられなかったのかもしれない」

真弓は、その解釈を、自分の中で、しばらく、転がした。

転がしているうちに、その解釈は、希望のような、温かさを持ち始めた。

真弓は、その温かさを、感じた。

感じてから、真弓は、自分にこう言った。

――いや、これは、違う。

これは、真弓が、自分に、嘘をついている。

誠は、感情がないから、答えなかった。それが、本当のことだ。誠は、ずっと前から、自分に対して、感情を、持っていなかった。だから、答えられなかった。これが、事実だ。

でも、その事実を、認めるのは、痛い。

痛いから、別の解釈で、誤魔化したくなる。

「答えられない感情があるのかもしれない」という解釈は、痛みを和らげる、嘘だった。

真弓は、その嘘に、すがろうとしていた。

でも、すがってはいけないと、自分に言い聞かせた。

すがれば、また、期待が生まれる。期待が生まれれば、また、傷つく。

真弓は、もう、傷つきたくなかった。

真弓は、自分への嘘を、自分で、剥がした。

剥がしたら、本当の感情が、出てきた。

本当の感情は、こうだった。

「私は、誠に、最後まで、見てもらえなかった」

「これは、誰のせいでもなく、ただ、そういう構造だっただけ」

「悲しいけど、これが、現実だ」

真弓は、その本当の感情を、しばらく、抱えていた。

抱えていると、涙が、出てきた。

真弓は、声を出さずに、泣いた。

泣くことは、必要だった。

泣くことで、真弓は、自分への嘘を、剥がした自分を、確認した。

剥がした自分は、痛かった。

でも、嘘で誤魔化していた自分よりは、本物だった。

真弓は、本物の自分のままで、その夜、眠った。

眠る前に、真弓は、決めた。

もう、誠と、深く話さない。

挨拶は、するけど、感情は、見せない。

これが、自分を守る、最後の方法だった。

失望値、7。

でも、その7は、もう、悲しさだけではなかった。

その7には、真弓の、自分への誠実さが、混じっていた。

自分に嘘をつかない、という誠実さは、これから、真弓の中で、ゆっくりと、育っていく。

育ったその誠実さは、十八年後、真弓の人生を、別の場所に、連れていくことになる。

でも、それは、ずっと先の話だった。

· · ·

同じ夜、誠は、自分の部屋で、ノートを開いていた。

ノートに、誠は、こう書いた。

「真弓に、感情について聞かれた。俺は、答えられなかった」

「なぜ、答えられなかったのか」

「分析が、終わっていなかったから」

「では、なぜ、分析が終わっていなかったのか」

誠は、その問いに、答えを書こうとした。

書こうとして、ペンが、止まった。

誠は、自分の中の、真弓に対する感情の項目を、開こうとした。

でも、そのフォルダが、見つからなかった。

誠の脳内データベースに、「真弓に対する感情」というフォルダは、存在していなかった。

存在していないものを、答えることは、できなかった。

これが、誠の「答えられない」の、表面的な理由だった。

でも、誠の中で、ある違和感が、立ち上がっていた。

「真弓に対する感情のフォルダが、ない」ということは、本当に、感情が、ないことを意味するのだろうか。

もしかしたら、感情は、あるけれど、それを格納するフォルダを、自分が、用意していなかっただけ、かもしれない。

誠は、その可能性を、初めて、認識した。

認識した瞬間、誠の中で、何かが、動いた。

動いた何かは、誠が、これまで、感じたことのない、種類のものだった。

誠は、その何かに、名前を、つけようとした。

つけようとして、つけられなかった。

誠の脳内データベースには、その何かを、分類するためのカテゴリも、なかった。

新しいカテゴリを、作るべきか、誠は、迷った。

迷った末に、作らないことにした。

作ると、その何かが、確定する。確定すると、まずい。

「まずい」の正体を、誠は、まだ、知らなかった。

でも、確定させてはいけない、ということは、本能的に、感じていた。

誠は、その何かを、未確定のまま、放置することにした。

放置するために、誠は、自分にこう言った。

「これは、ただの違和感だ」

「気のせいだ」

「分析する必要は、ない」

誠は、その何かを、無視できる枠の中に、押し込めた。

押し込めた瞬間、誠の中で、軽い、安堵が、訪れた。

安堵が訪れたあとで、誠は、ノートに、こう書いた。

「真弓に対する感情は、特になし」

書いて、誠は、ノートを閉じた。

これが、誠が、自分についた、最初の、はっきりとした嘘だった。

嘘をついている、という自覚は、誠には、なかった。

自覚がないから、嘘は、誠の中で、事実として、固まっていった。

固まっていく嘘は、誠の中で、十八年、訂正されないことになる。

訂正されるのは、ずっとあと、ノートを書き直すときだった。

その時、誠は、こう書き直すことになる。

「真弓に対する感情は、確かに、あった。あったが、認めたくなかった。認めると、自分の構造が、崩れるからだった。だから、ないことにした。ないことにすることで、俺は、自分の構造を、守った。守ったが、真弓を、失った」

でも、それは、ずっと先の話だった。

Scene 02
数日後の朝 / 校門の前 / 短い挨拶
誠
おはよう。
真弓
真弓
おはよう。
誠
この前のこと、考えた。
真弓
真弓
うん。
誠
俺の感情は、特に、ないという結論になった。
真弓
真弓
そっか。
誠
分かりにくい答えで、すまない。
真弓
真弓
大丈夫。分かりやすかったよ。
誠
そうか。
真弓
真弓
じゃあ、行くね。
誠
真弓は、誠より先に、校門を通った。誠は、しばらく、校門の前に立っていた。

誠は、校門の前で、しばらく、動かなかった。

真弓の「分かりやすかったよ」という言葉が、誠の中で、引っかかっていた。

誠は、自分の中で、自分の答えを、何度か、再生してみた。

「俺の感情は、特に、ないという結論になった」

この答えは、誠にとって、論理的だった。誠の脳内データベースには、真弓に対する感情のフォルダが、なかった。だから、感情は、特にない。これは、整合性のある結論だった。

でも、その結論を、口に出した瞬間、誠は、自分の中で、何かが、ねじれるのを、感じた。

ねじれた何かは、誠の中で、認識されないまま、保管された。

保管された何かは、夜になると、勝手に、再生された。

誠は、夜、眠れなかった。

眠れない、という現象を、誠は、第6話の文化祭の夜に、初めて経験していた。

第8話で、誠は、二度目の不眠を、経験することになる。

誠は、それを、ノートに書こうとして、また、やめた。

書くと、確定する。確定すると、まずい。

誠の中で、「まずい」という感覚は、どんどん、強くなっていた。

でも、「まずい」の正体は、まだ、誠には、見えていなかった。

見えていないまま、誠は、夜を、過ごした。

誠の傷の蓄積、3件目になっていた。

誠自身は、それを、まだ、認識していなかった。

十二月の初め。誠の机の上のノート。新しいページに誠がある一行を書いて消した跡が残っている。消した跡は消されているのに、まだ読める。
十二月の初め。誠の机の上のノート。
新しいページに、誠が、ある一行を書いて、消した跡が残っている。
消した跡は、消されているのに、まだ、読める。

十二月の初め、誠は、自分のノートを開いた。

新しいページに、誠は、こう書いた。

「真弓に、何かを、伝えたかったのかもしれない」

書いて、誠は、その文字を、見つめた。

見つめてから、消しゴムで、消した。

消したが、消した跡が、ノートに、薄く残った。

誠は、その消した跡を、しばらく、見つめた。

消した跡は、消されているのに、まだ、読めた。

誠は、その「まだ読める」という事実に、軽い、苛立ちを覚えた。

苛立ちは、誠にとって、ほとんど経験のない感情だった。

誠は、ペンを置いて、自分の手を、見た。

自分の手は、ペンを、握りしめていた。

誠は、自分が、無意識に、ペンを強く握りしめていたことに、初めて気づいた。

気づいてから、誠は、ペンを、机の上に、ゆっくりと置いた。

ペンを置いてから、誠は、もう一度、消した跡を、見つめた。

「真弓に、何かを、伝えたかったのかもしれない」

書こうとして、書けなかった。書いて、消した。消したが、消えなかった。

これは、何を意味するのだろう、と誠は、自分に問いかけた。

問いかけた答えは、出なかった。

出ないことに、誠は、もう、慣れ始めていた。

慣れ始めている、という事実が、誠にとっては、新しい、不安だった。

誠は、ノートを閉じた。

閉じても、消した跡は、ノートの中に、残っていた。

残っていることを、誠は、知っていた。

知っていながら、見ないことに、決めた。

これも、自分への、嘘だった。

誠は、嘘をついていることに、気づいていなかった。

誠の計算式 — 掛け算(×)
感情 × 構造 = 0
…どちらかが0になれば、答えも0になる。
掛け算は、二つの要素が、一緒に動くことで、答えが出る演算だ。一方が大きくても、もう一方が0なら、答えは0になる。

誠の中には、感情があった。それは、第6話の文化祭の夜から、第8話の真弓の問いまで、確実に、育っていた。

でも、誠の構造の中には、感情を格納するフォルダがなかった。フォルダがないということは、感情の容量が、0ということだ。

感情がいくらあっても、それを格納する構造が0なら、結果は0だった。

誠は、自分に「感情は、特にない」という答えを書いた。これは、構造から見れば、正しい答えだった。フォルダがないのだから、感情は、認識されない。認識されないものは、ないものとして、扱われる。

でも、本当は、感情はあった。構造の外に、漏れていた。漏れたものが、夜の不眠になった。漏れたものが、消した跡になった。漏れたものが、ペンを強く握りしめる手になった。

構造の中に入りきらなかった感情は、消えなかった。身体に、漏れ出た。

誠は、それを、認識しなかった。認識すると、構造が、崩れる。崩れると、まずい。

だから、誠は、自分に嘘をついた。嘘は、真弓にだけついたものではなく、自分自身に、ついたものだった。

自分への嘘は、最も、見抜きにくい。なぜなら、自分は、嘘を、信じてしまうからだ。

誠は、十八年、自分の嘘を、信じ続けることになる。信じることで、誠は、自分の構造を、守った。守った代わりに、真弓を、失った。

真弓も、自分に嘘をつこうとして、踏みとどまった。踏みとどまった真弓は、痛みを抱えながら、本物のままで、生きていく。嘘をつかなかった真弓は、嘘をついた誠より、ずっと、自分に近い場所で、生きていく。

誰のせいでもない。ただ、二人の選択が、別れただけだった。その別れは、第8話の、ある日の放課後に、決まった。

二人とも、その日のことを、十八年、忘れない。忘れられない、ということが、二人の関係の、最も、本質的な姿だった。
Scene 03
十二月のある夜 / 真弓の部屋 / 独白
真弓
真弓
(誠に、聞いてよかった)
真弓
真弓
(聞いて、答えてもらえなかったことが、答えだった)
真弓
真弓
(だから、もう、迷わなくていい)
真弓
真弓
(手紙は、机の引き出しに、しまった)
真弓
真弓
(捨てない。捨てたら、自分を捨てるのと同じだから)
真弓
真弓
(でも、誠には、もう、見せない)
真弓
真弓
(私の中の、一番奥にある気持ちを、誰にも見せずに、自分だけで、抱えていく)
真弓
真弓
(それが、私の、誠への、最後の優しさだ)

誠の机の上のノートは、消した跡のあるページが、開いたままだった。

真弓は、その夜、引き出しの中の白い封筒に、軽く触れた。

触れて、また、引き出しを閉じた。

閉じてから、真弓は、自分の手を、見た。

自分の手は、震えていなかった。

第3話の夜、進路調査票を書いたとき、真弓の手は、震えていた。

でも、第8話の夜、真弓の手は、震えていなかった。

真弓は、その違いに、自分でも、驚いた。

震えなくなった理由を、真弓は、考えた。

考えた末に、答えは、こう出た。

――もう、決まったから。

誠との関係は、もう、決まった。

決まったら、迷わなくていい。迷わないなら、震えない。

震えないことは、楽だった。

楽だが、それは、悲しい楽だった。

真弓は、その悲しい楽を、自分の中に、迎え入れた。

迎え入れた瞬間、真弓は、子どもから、少しだけ、大人になった。

大人になることは、嬉しいことだろうか。

真弓には、分からなかった。

分からないまま、真弓は、その夜、眠った。

· · ·

自分への嘘について、もう少し、書いておく。

自分への嘘は、悪いものではない。

人間が、辛い現実に直面したとき、自分に嘘をつくことで、その辛さを、和らげる。これは、心を守るための、防衛機能だ。誰もが、無意識に、これをやっている。

でも、嘘を、長く信じ続けると、副作用が、出る。

本当の感情が、見えなくなる。

見えなくなった感情は、消えるわけではない。心の奥に、押し込められたまま、残る。

残った感情は、ふとした瞬間に、身体に、漏れ出る。

不眠になる。食欲がなくなる。頭が痛くなる。意味もなく、涙が出る。

これらは、すべて、押し込められた感情の、漏れ出る音だ。

誠は、自分の感情を、押し込めた。

押し込められた感情は、誠の身体から、漏れ出始めた。

でも、誠は、それを、感情の漏れだと、認識しなかった。

「ただの違和感」「気のせい」「分析する必要はない」と、誠は、自分に説明した。

説明した瞬間、誠は、また、自分に嘘をついた。

嘘の上に、嘘を、重ねた。

嘘を重ねた結果、誠の構造は、安定した。

でも、安定した構造の下で、本当の感情は、ずっと、漏れ続けた。

真弓は、誠と、別の選択をした。

真弓も、最初は、自分に嘘をつこうとした。「誠は、感情があるから、答えられなかったのかもしれない」と、自分に言った。

でも、真弓は、その嘘を、自分で、剥がした。

剥がして、本当の感情と、向き合った。

向き合うことは、痛かった。

でも、嘘で誤魔化すよりは、本物だった。

あなたが、もし今、何かに対して、自分に嘘をついているなら、その嘘を、責めなくていい。嘘は、心を守るための、必要な機能だ。

でも、嘘の下に、本当の感情が、押し込められていることだけは、覚えていてほしい。

押し込められた感情は、消えない。

身体に、漏れ出る。

漏れ出たものを、無視し続けると、いつか、身体が、壊れる。

壊れる前に、嘘を、剥がす勇気を、持ってほしい。

剥がしたあとの本当の感情は、痛い。でも、痛みは、本物だ。

本物の痛みは、いつか、薄れる。

偽物の安心は、ずっと、続く。続いた末に、人を、深いところで、壊す。

真弓は、本物の痛みを、選んだ。

誠は、偽物の安心を、選んだ。

二人の選択は、十八年後、まったく違う場所に、二人を、連れていくことになる。

あなたには、本物の痛みを、選んでほしい。

これが、真弓から、十八年後のあなたへの、五つ目のメッセージだ。

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References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・認知的不協和 (Cognitive Dissonance)
  • ・自己奉仕バイアス (Self-Serving Bias)
· · ·
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