第7章 噂 —— 確認していないことが「事実」になる — Portrait of Identity

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十月の教室。休み時間。女子のグループが机を寄せて話している。誰かの机に伏せられた開きかけのスマホ。真弓は自分の席で、その輪を少し離れた場所から見ている。
十月の教室。休み時間。女子のグループが、机を寄せて話している。
誰かの机に伏せられた、開きかけのスマホ。
真弓は、自分の席で、その輪を、少し離れた場所から見ている。

何度も聞いた話は、いつの間にか、本当のことに、なっている。

一回だけ聞いた話なら、人は疑える。三人から聞いた話なら、少し、怪しいと思う。十人から聞いた話なら、ほとんどの人が、本当だと信じ始める。

不思議なのは、十人から聞いたとしても、その十人が、全員、最初の一人から聞いた話を伝えているだけかもしれない、ということだ。情報源は、たった一つ。それが、十人を経由しただけで、十個の独立した証言のように、感じられる。

これが、噂の構造だ。

噂は、最初は、誰かの口から出る。出た時点では、それが事実かどうか、誰も知らない。でも、聞いた人が、また誰かに伝える。伝えるときに、少しずつ、形が変わる。形が変わったまま、また伝わる。何回か伝わるうちに、最初の話とは、似て非なるものになっている。

それでも、人は、信じる。

なぜなら、何度も聞いたからだ。

「何度も聞いた」という事実が、内容の正しさよりも、強く、人の判断を支配する。

真弓が、その仕組みの中に、巻き込まれたのは、文化祭が終わって、二週間後のことだった。

巻き込まれたのは、自分が噂の対象になったからではなかった。

真弓は、噂を、聞く側だった。

聞く側のはずだった。

でも、聞いているうちに、自分も、その噂の一部になっていた。

· · ·

十月の半ば、休み時間に、真弓のグループの女子たちが、机を寄せて話していた。

真弓は、その輪に、いつものように加わっていた。

話題は、誠のことだった。

「誠くんって、麻美ちゃんと、本当に、何もないの?」

友人Aが、誰にともなく、聞いた。

「私、聞いたんだけど」と、友人Bが、声を少し落として言った。

「誠くん、麻美ちゃんに、告白したらしいよ」

真弓は、たまご焼きを口に運ぼうとしていた手を、止めた。

「え、嘘」

「本当だって。中学のころに。麻美ちゃんが、断ったんだって」

「誰から聞いたの?」

「2組の子。麻美ちゃんと中学が同じだった子から、聞いたって」

「ふうん」

真弓は、たまご焼きを、口に運んだ。咀嚼した。味は、よく、分からなかった。

「だからさ、誠くん、今でも麻美ちゃんのこと、好きなんじゃない?」

「そうだよね、いつも一緒にいるし」

「でも、麻美ちゃんは、別の子と付き合ってるって、聞いたよ」

「え、誰と?」

「裕太くん」

「裕太くん?同じクラスの?」

「うん。仲がいいし、二人で帰ってるところ、見た子がいるって」

真弓は、その会話を、聞いていた。

聞きながら、頭の中で、いくつかの情報が、整理されていった。

誠が麻美に告白した。麻美が断った。麻美は裕太と付き合っている。誠は、今でも麻美のことが好きだ。

これらの情報は、すべて、伝聞だった。

誰も、本人から、直接聞いていなかった。

「2組の子から聞いた」「麻美ちゃんと中学が同じだった子から聞いた」「二人で帰ってるところを見た子がいる」

すべて、誰かから誰かに伝わってきた話だった。

でも、真弓の頭の中で、それらの情報は、徐々に「事実」として、固まり始めていた。

固まる前に、真弓は、一度、自分にこう問いかけた。

――これ、本当のことなのかな。

でも、その問いは、すぐに、消えた。

なぜなら、グループの全員が、その話を、本当のこととして話していたからだった。

全員が信じている話を、一人だけ疑うのは、難しかった。

難しいというより、疑う理由が、なかった。

真弓は、たまご焼きを、もう一切れ、口に運んだ。

運びながら、心の中で、ある変化が起きていた。

真弓の中の、誠の像が、また一つ、書き換えられていた。

「麻美のことが、ずっと好きな誠」

これが、その日、真弓の中に、新しく刻まれた、誠の像だった。

その像が、本当の誠と、どれだけ重なっているか、真弓は、確認しなかった。

確認する必要が、ないと感じていた。

· · ·

その日の放課後、真弓は、廊下で、誠とすれ違った。

誠は、いつものように、ノートを抱えていた。

真弓は、誠を見て、立ち止まった。

立ち止まった理由を、自分でも、よく分からなかった。

誠も、真弓を見て、立ち止まった。

Scene 01
放課後の廊下 / すれ違い
真弓
真弓
あ。
誠
どうした。
真弓
真弓
いや、別に、なんでもない。
誠
立ち止まったから、何かあるのかと思った。
真弓
真弓
……ちょっと、聞きたいことがあるんだけど。
誠
何。
真弓
真弓
あなた、麻美ちゃんに、告白したことあるの?
誠
誠は、しばらく、真弓の顔を見ていた。
誠
ない。
真弓
真弓
本当に?
誠
本当だ。なぜ、そんなことを聞く。
真弓
真弓
クラスで、そういう噂があって。
誠
事実を確認しろ。
真弓
真弓
今、確認した。
誠
なら、信じればいい。
真弓
真弓
……信じていい?
誠
俺が、嘘をつく必要が、どこにある。
真弓
真弓
そうだよね。ごめん。

真弓は、誠の前を、頭を下げて、通り過ぎた。

通り過ぎてから、真弓は、廊下の壁に、もたれかかった。

息が、うまく、できなかった。

誠は、嘘をついていなかった。

誠は、麻美に告白なんて、していなかった。

真弓は、それを、誠の口から、確認した。

確認したのに、なぜか、真弓の中で、安心感は、湧いてこなかった。

湧いてきたのは、別の感情だった。

真弓は、その感情を、しばらく、観察した。

観察した結果、その感情の名前は、「失望」だった。

誠が、麻美に告白していなかったことに、失望していた。

それは、真弓自身、予想外の感情だった。

真弓は、誠が告白していたら、自分が傷つくと、思っていた。

でも、実際は、逆だった。

誠が告白していなかったことに、真弓は、傷ついていた。

なぜか。

真弓は、その理由を、考えた。

そして、気づいた。

誠が、麻美にすら、告白したことがない、ということは、誠は、誰にも、何も言わない人なんだ、ということだった。

麻美は、誠と中学からの友達だった。家族のような距離にいた。誠が、もし誰かに何かを言うとしたら、それは、麻美のような、近い人だった。

でも、誠は、麻美にすら、何も言っていなかった。

つまり、誠は、誰にも、何も言わない人だった。

誰にも何も言わない人は、真弓にも、何も言わない。

当たり前のことだった。

でも、その「当たり前」が、真弓には、痛かった。

真弓は、心のどこかで、誠が、自分にだけ、何かを言ってくれることを、期待していた。

麻美にも言わない誠が、自分にだけ、特別に、何かを言ってくれる。

そんな期待を、真弓は、抱いていた。

でも、その期待は、構造的に、成立しないものだった。

誰にも何も言わない人は、誰にも、何も言わない。

例外は、ない。

真弓は、廊下の壁に、もたれかかったまま、しばらく、動けなかった。

動けないあいだ、真弓は、また、自分の期待を、捨てる作業をしていた。

第3話で、捨てた。

第6話で、捨てた。

第7話で、また、捨てた。

捨てるたびに、捨てるべきものが、どんどん、深い場所から、出てきた。

真弓の期待は、思っていたよりも、ずっと、深いところまで、根を張っていた。

翌日の昼休み。教室。真弓はいつものグループの会話に加わらない。弁当箱の蓋を開けたまま手をつけずにいる。友人Aが心配そうに真弓の顔を覗き込んでいる。
翌日の昼休み。教室。真弓は、いつものグループの会話に、加わらない。
弁当箱の蓋を、開けたまま、手をつけずにいる。
友人Aが、心配そうに、真弓の顔を覗き込んでいる。

翌日の昼休み、真弓は、いつものグループに、加わらなかった。

正確には、加わったが、会話には、参加しなかった。

ただ、机に弁当箱を広げて、食べていた。食べていた、というよりは、食べる動作をしていた。

友人Aが、真弓の顔を、覗き込んだ。

「真弓、大丈夫?元気ない?」

「うん、大丈夫」

「なんかあった?」

「ううん、何もない」

友人Aは、それ以上、聞かなかった。

真弓は、弁当を、食べ続けた。食べながら、ふと、昨日の会話を、思い出した。

「誠くん、麻美ちゃんに、告白したらしいよ」

友人Bの言葉が、頭の中で、再生された。

真弓は、しばらく、その言葉を、頭の中で、繰り返した。

そして、思った。

――この話、嘘だった。

でも、グループのみんなは、本当の話だと思っている。

真弓だけが、本当のことを、知っている。

真弓は、その事実を、グループのみんなに、伝えるべきかどうか、迷った。

「誠くん、告白なんてしてないって。本人に確認した」

そう言えば、噂は、訂正される。

でも、真弓は、それを言わなかった。

なぜなら、言うと、自分が、誠に直接確認したことが、バレるからだった。

誠に直接確認した、ということは、自分が、誠に対して、それなりの距離感を持っている、ということを、グループに知られることになる。

知られたら、何かが、変わってしまうような気がした。

真弓は、その「何か」が変わるのを、避けたかった。

だから、真弓は、噂を、訂正しなかった。

訂正しないことで、真弓は、噂の一部になった。

真弓は、噂を、訂正できる立場にいた。

でも、訂正しなかった。

これは、真弓の、能動的な選択だった。

能動的な選択をしたのに、真弓は、それを「仕方なかった」と、自分に説明した。

仕方なかったわけではなかった。

選んだのだった。

選んだことに、真弓自身、向き合いたくなかった。

向き合わずに、真弓は、弁当の続きを、食べた。

味は、相変わらず、よく、分からなかった。

· · ·

同じ昼休み、誠は、自分の席で、ノートを開いていた。

ノートに、誠は、新しいことを書いていた。

「真弓が、噂を、聞きに来た」

「俺は、否定した」

「真弓は、信じた」

「これで、終わった」

誠は、その四行を、書いた。書いて、閉じた。

誠の中では、その出来事は、四行で完結していた。

事実を確認された。事実を答えた。相手が信じた。終了。

これが、誠にとっての、論理的な処理だった。

でも、ノートを閉じたあと、誠は、ある違和感を、覚えていた。

真弓が「ごめん」と言って、頭を下げて、通り過ぎたときの、真弓の表情。

あれは、何だったんだろう、と誠は思った。

普段の真弓なら、何かを聞いて、答えをもらったら、「そうなんだ」と、明るく笑う。「ありがとう」と、言う。

でも、昨日の真弓は、笑わなかった。

「ごめん」と言って、頭を下げて、通り過ぎた。

その「ごめん」は、何に対する「ごめん」だったんだろう。

誠は、考えた。

誠の脳内データベースで、考えうる候補を、リストアップした。

候補1:噂を聞いて、誠を疑ったことに対する「ごめん」。

候補2:プライベートな質問をしたことに対する「ごめん」。

候補3:廊下で立ち止まらせたことに対する「ごめん」。

誠の判定では、候補1の確率が、最も高かった。

誠は、そう判定して、その問題を、処理済みにした。

処理済みにしたものは、誠の中で、もう、再考されない。

でも、本当は、真弓の「ごめん」は、誠の三つの候補のどれでもなかった。

真弓の「ごめん」は、誠への失望に対する、自分への謝罪だった。

「あなたに、勝手に期待して、勝手に失望して、ごめん」

これが、真弓の「ごめん」の、本当の意味だった。

でも、誠は、その意味を、想像できなかった。

想像できなかったから、誤った候補を、正解として処理した。

誤った処理は、誠のノートの中で、十八年、訂正されなかった。

訂正されないまま、誠の中の真弓の像は、また少しずつ、本物の真弓から、離れていった。

Scene 02
数日後の放課後 / 教室 / 短い会話
真弓
真弓
この前、ごめんね。変なこと聞いて。
誠
変なことじゃない。事実確認だ。
真弓
真弓
うん。事実確認って、大事だよね。
誠
そうだ。噂を信じる前に、確認するのは、合理的だ。
真弓
真弓
確認しても、安心できないことって、あるよね。
誠
どういう意味だ。
真弓
真弓
事実は確認できても、感情は、確認できないってこと。
誠
感情は、事実とは違う。確認の対象にならない。
真弓
真弓
私には、感情のほうが、事実より、大事なんだけどな。
誠
誠は、ペンを止めた。
誠
それは、危険だ。
真弓
真弓
なんで?
誠
感情は、ねじれる。事実は、ねじれない。判断の基準として、感情を採用するのは、判断を誤る確率が高い。
真弓
真弓
判断を誤ったって、いいんじゃないかな。私たちは、機械じゃないし。
誠
機械じゃないから、誤るのを最小化する方法を、考えるべきだ。
真弓
真弓
真弓は、しばらく、誠の顔を見ていた。
真弓
真弓
あなたって、本当に、徹底してるんだね。
誠
徹底することが、信頼につながる。
真弓
真弓
そっか。
真弓
真弓
真弓は、誠に背を向けて、教室を出た。

真弓は、廊下を歩きながら、誠の言葉を、頭の中で再生した。

「徹底することが、信頼につながる」

誠の中では、たぶん、本当に、そう信じられていた。

誠は、徹底することで、自分のことを、信頼できる人間にしてきたのだろう。事実を、事実として扱う。感情で判断を歪めない。それが、誠の信頼の構造だった。

でも、真弓の中で、誠への信頼は、別のものだった。

真弓は、誠を、信頼していた。していた、と過去形で考えるのは、まだ、早い気がした。今でも、信頼している、と思いたかった。

でも、その信頼は、誠の徹底さに対する信頼ではなかった。

真弓が信頼していたのは、誠の、人間としての、温度だった。

誠は、徹底している。それは、確かだった。

でも、徹底している奥に、何か、温度のあるものが、あるはずだった。

その温度を、真弓は、信頼していた。

でも、最近、その温度が、感じられなかった。

感じられないのは、なくなったからなのか、それとも、最初から、なかったからなのか、真弓には、判別できなかった。

判別できないものを、真弓は、信頼し続けることが、できなくなっていた。

失望値、6から、7へ。

静かに、確実に、失望は、積み上がっていた。

十月の終わり。真弓のグループのなかで、また新しい噂が回り始めている。真弓はその輪の中にいるが、もう何も話さない。ただ聞いている。
十月の終わり。真弓のグループのなかで、また、新しい噂が回り始めている。
真弓は、その輪の中にいるが、もう、何も話さない。
ただ、聞いている。

十月の終わりごろ、真弓のグループでは、また、新しい噂が、回り始めていた。

今度は、別のクラスの、別の子の噂だった。誰かが、誰かと付き合っているらしい。誰かが、誰かに、ひどいことを言ったらしい。誰かの家庭に、何かがあるらしい。

真弓は、その輪の中にいた。

でも、もう、何も話さなかった。

ただ、聞いていた。

聞きながら、真弓は、頭の中で、ある分析をしていた。

これらの噂のうち、本当なのは、何割なのか。

真弓自身、誠の噂が嘘だと知っていた。だから、他の噂も、半分くらいは、嘘なのかもしれない、と真弓は思った。

でも、グループのみんなは、すべての噂を、本当だと信じていた。

真弓は、その温度差に、初めて、気づいた。

気づいてから、真弓は、グループの一員でいることが、少しずつ、しんどくなり始めた。

でも、グループから抜けることは、できなかった。

抜けたら、真弓は、ひとりになる。

ひとりになるのは、怖かった。

誠は、ひとりでいることを、自然にしていた。

でも、真弓には、それは、できなかった。

真弓は、ひとりになるよりは、温度差を感じながらでも、グループにいるほうを、選んだ。

これは、消極的な選択だった。

消極的な選択は、自分を、少しずつ、削っていく。

真弓は、それを、自覚していなかった。

自覚しないまま、真弓は、グループの会話に、相槌を打ち続けた。

「うん、そうだよね」

「私もそう思った」

「ひどいよね」

言葉は、簡単に、出てきた。

でも、その言葉は、真弓の本当の感情とは、別のものだった。

真弓の本当の感情は、別の場所にあった。

「噂って、たぶん、半分くらいは嘘だ」

「でも、嘘だと言ったら、私が、グループから外れる」

「だから、嘘だと、言わない」

「言わないことで、私も、噂の一部になる」

「私は、噂を作る側にも、噂を信じる側にも、いる」

「これは、誠が言うところの、感情で判断を歪める、ということなのかもしれない」

真弓は、自分が、誠が忌避する状態に、ぴったり、当てはまっていることを、自覚した。

自覚したが、抜け出す方法が、分からなかった。

抜け出さなくていい、と真弓は思った。

誠の言うとおりに生きていたら、自分は、ひとりになる。

ひとりになりたくない自分は、誠の言う「感情で判断を歪める」状態を、選ぶしかない。

これが、自分の選択だった。

選択した結果、自分は、ねじれた人間になる。

ねじれた人間として、生きていく。

誠は、ねじれない人間として、生きていく。

二人は、ますます、別の場所に行く。

これが、第7話の、結論だった。

誠の計算式 — 割り算(÷)
繰り返された情報 ÷ 検証回数 = 真実らしさ
…余り:感情の居場所
噂を、割り算で考えてみる。何度も繰り返された情報を、その情報を実際に検証した回数で割る。割った結果、商として「真実らしさ」が出る。

繰り返しの回数が多いほど、真実らしさは大きくなる。検証回数が少なくても、繰り返しが多ければ、真実らしさは大きくなる。これが、噂が事実として固まる仕組みだ。

でも、この計算式には、余りが出る。

余りは、「感情の居場所」だ。

真弓が誠に「告白したことあるの?」と聞いたとき、誠は、即座に「ない」と答えた。事実は、確認された。商は、出た。

でも、真弓の感情は、商の中に、入り切らなかった。

「誠が麻美に告白していなかったことに、なぜか、失望する」「自分が誠に期待していたことの輪郭を、初めて知る」「グループに、訂正情報を伝えられない」「噂を訂正しないことで、自分も噂の一部になる」「ひとりになるのが怖くて、ねじれた状態を選ぶ」

これらは、すべて、計算式の余りだった。商の中には、入らない。でも、消えない。余りとして、真弓の中に、残る。

残った余りは、夜の反芻のときに、また、再生される。再生されるたびに、真弓の中の誠の像は、本物の誠から、また少し、離れていく。

誠は、「事実を確認しろ」と言った。確認しても、真弓は、安心できなかった。確認は、商を出すだけだ。余りは、確認では、解決しない。

真弓が必要だったのは、確認ではなく、感情の居場所だった。誠は、それを、与えなかった。与え方を、知らなかった。

知らないことを、誠の罪だと、誰も言えない。でも、知らないことが、結果として、人を傷つける。知ることは、いつだって、責任を伴う。
Scene 03
十一月の初め / 廊下 / 真弓の独白
真弓
真弓
(噂って、本当に、不思議だ)
真弓
真弓
(誰も、本当のことを、知らない)
真弓
真弓
(でも、知らないまま、本当のことのように、話す)
真弓
真弓
(私も、その一員だ)
真弓
真弓
(私の中の誠の像も、私が勝手に作った噂みたいなものだ)
真弓
真弓
(私の頭の中で、何度も再生されて、本当のことのように、固まった)
真弓
真弓
(私だけの、誠の噂)

誠は、その時間、自分の教室の席でノートを広げていた。真弓がどこにいるかを、考えていなかった。

真弓は、自分の中の誠の像が、本物の誠とは、別物になっていることを、薄く、感じていた。

でも、その「薄く感じている」というレベルだった。

はっきりと、認識しているわけではなかった。

はっきり認識したら、真弓は、自分の中の誠の像を、修正しなければならない。

修正するためには、本物の誠と、もう一度、向き合わなければならない。

向き合うのは、もう、しんどかった。

真弓は、薄い感覚のまま、それを、放置することにした。

放置されたまま、真弓の中の誠は、噂のように、固まり続けた。

固まったものは、後で、修正するのが、難しくなる。

でも、真弓は、その時点で、修正のチャンスを、能動的に、見送っていた。

誠も、同じことを、自分の中の真弓の像で、やっていた。

真弓の「ごめん」を、誤って解釈した時点で、誠の中の真弓の像も、固まり始めていた。

二人とも、相手を、自分の頭の中の噂として、抱え始めていた。

本物の相手とは、別物の像が、それぞれの頭の中で、独立して、成長していった。

これが、第7話の、二人の状態だった。

· · ·

噂について、もう少し、書いておく。

噂は、悪いものではない。

人間の社会では、情報を、すべて自分で確認することは、不可能だ。だから、人は、他人の話を、ある程度、信じる。信じることで、社会が、成立している。

でも、信じすぎることで、間違った像が、頭の中に、固まる。

固まった像は、本物の人と、別物として、成長していく。

その別物の像のほうを、人は「本当のあの人」だと、思い始める。

これが、噂の最も静かで、最も恐ろしい働き方だった。

真弓は、誠を、自分の頭の中で、噂として、抱えていた。

誠は、真弓を、自分の頭の中で、データとして、抱えていた。

どちらも、本物ではなかった。

どちらも、本物だと、信じていた。

これが、すれ違いの、最も深い形だった。

あなたが、もし今、誰かのことを「こういう人だ」と思っているなら、その認識は、繰り返しによって、固まったものかもしれない。本人に確認していないことが、自分の中で「事実」になっているかもしれない。

確認することは、いつでもできる。

でも、確認しても、安心できないことがある。

それは、確認の対象が、相手の事実ではなく、自分の中の像だからだ。

自分の中の像は、相手に確認しても、修正されない。

修正できるのは、自分自身だけだ。

自分の中の誰かを、固まる前に、もう一度、ほどいてみる。

ほどいて、本物の相手と、向き合い直す。

これが、噂が固まる前に、できる、たった一つのことだ。

真弓は、これを、しなかった。

誠も、これを、しなかった。

二人は、お互いを、噂のまま、抱えて、卒業していくことになる。

あなたには、もっと早く、ほどいてほしい。

これが、真弓から、十八年後のあなたへの、四つ目のメッセージだ。

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References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・真実錯誤効果 (Illusory Truth Effect)
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