噂
誰かの机に伏せられた、開きかけのスマホ。
真弓は、自分の席で、その輪を、少し離れた場所から見ている。
何度も聞いた話は、いつの間にか、本当のことに、なっている。
一回だけ聞いた話なら、人は疑える。三人から聞いた話なら、少し、怪しいと思う。十人から聞いた話なら、ほとんどの人が、本当だと信じ始める。
不思議なのは、十人から聞いたとしても、その十人が、全員、最初の一人から聞いた話を伝えているだけかもしれない、ということだ。情報源は、たった一つ。それが、十人を経由しただけで、十個の独立した証言のように、感じられる。
これが、噂の構造だ。
噂は、最初は、誰かの口から出る。出た時点では、それが事実かどうか、誰も知らない。でも、聞いた人が、また誰かに伝える。伝えるときに、少しずつ、形が変わる。形が変わったまま、また伝わる。何回か伝わるうちに、最初の話とは、似て非なるものになっている。
それでも、人は、信じる。
なぜなら、何度も聞いたからだ。
「何度も聞いた」という事実が、内容の正しさよりも、強く、人の判断を支配する。
真弓が、その仕組みの中に、巻き込まれたのは、文化祭が終わって、二週間後のことだった。
巻き込まれたのは、自分が噂の対象になったからではなかった。
真弓は、噂を、聞く側だった。
聞く側のはずだった。
でも、聞いているうちに、自分も、その噂の一部になっていた。
十月の半ば、休み時間に、真弓のグループの女子たちが、机を寄せて話していた。
真弓は、その輪に、いつものように加わっていた。
話題は、誠のことだった。
「誠くんって、麻美ちゃんと、本当に、何もないの?」
友人Aが、誰にともなく、聞いた。
「私、聞いたんだけど」と、友人Bが、声を少し落として言った。
「誠くん、麻美ちゃんに、告白したらしいよ」
真弓は、たまご焼きを口に運ぼうとしていた手を、止めた。
「え、嘘」
「本当だって。中学のころに。麻美ちゃんが、断ったんだって」
「誰から聞いたの?」
「2組の子。麻美ちゃんと中学が同じだった子から、聞いたって」
「ふうん」
真弓は、たまご焼きを、口に運んだ。咀嚼した。味は、よく、分からなかった。
「だからさ、誠くん、今でも麻美ちゃんのこと、好きなんじゃない?」
「そうだよね、いつも一緒にいるし」
「でも、麻美ちゃんは、別の子と付き合ってるって、聞いたよ」
「え、誰と?」
「裕太くん」
「裕太くん?同じクラスの?」
「うん。仲がいいし、二人で帰ってるところ、見た子がいるって」
真弓は、その会話を、聞いていた。
聞きながら、頭の中で、いくつかの情報が、整理されていった。
誠が麻美に告白した。麻美が断った。麻美は裕太と付き合っている。誠は、今でも麻美のことが好きだ。
これらの情報は、すべて、伝聞だった。
誰も、本人から、直接聞いていなかった。
「2組の子から聞いた」「麻美ちゃんと中学が同じだった子から聞いた」「二人で帰ってるところを見た子がいる」
すべて、誰かから誰かに伝わってきた話だった。
でも、真弓の頭の中で、それらの情報は、徐々に「事実」として、固まり始めていた。
固まる前に、真弓は、一度、自分にこう問いかけた。
――これ、本当のことなのかな。
でも、その問いは、すぐに、消えた。
なぜなら、グループの全員が、その話を、本当のこととして話していたからだった。
全員が信じている話を、一人だけ疑うのは、難しかった。
難しいというより、疑う理由が、なかった。
真弓は、たまご焼きを、もう一切れ、口に運んだ。
運びながら、心の中で、ある変化が起きていた。
真弓の中の、誠の像が、また一つ、書き換えられていた。
「麻美のことが、ずっと好きな誠」
これが、その日、真弓の中に、新しく刻まれた、誠の像だった。
その像が、本当の誠と、どれだけ重なっているか、真弓は、確認しなかった。
確認する必要が、ないと感じていた。
その日の放課後、真弓は、廊下で、誠とすれ違った。
誠は、いつものように、ノートを抱えていた。
真弓は、誠を見て、立ち止まった。
立ち止まった理由を、自分でも、よく分からなかった。
誠も、真弓を見て、立ち止まった。
真弓は、誠の前を、頭を下げて、通り過ぎた。
通り過ぎてから、真弓は、廊下の壁に、もたれかかった。
息が、うまく、できなかった。
誠は、嘘をついていなかった。
誠は、麻美に告白なんて、していなかった。
真弓は、それを、誠の口から、確認した。
確認したのに、なぜか、真弓の中で、安心感は、湧いてこなかった。
湧いてきたのは、別の感情だった。
真弓は、その感情を、しばらく、観察した。
観察した結果、その感情の名前は、「失望」だった。
誠が、麻美に告白していなかったことに、失望していた。
それは、真弓自身、予想外の感情だった。
真弓は、誠が告白していたら、自分が傷つくと、思っていた。
でも、実際は、逆だった。
誠が告白していなかったことに、真弓は、傷ついていた。
なぜか。
真弓は、その理由を、考えた。
そして、気づいた。
誠が、麻美にすら、告白したことがない、ということは、誠は、誰にも、何も言わない人なんだ、ということだった。
麻美は、誠と中学からの友達だった。家族のような距離にいた。誠が、もし誰かに何かを言うとしたら、それは、麻美のような、近い人だった。
でも、誠は、麻美にすら、何も言っていなかった。
つまり、誠は、誰にも、何も言わない人だった。
誰にも何も言わない人は、真弓にも、何も言わない。
当たり前のことだった。
でも、その「当たり前」が、真弓には、痛かった。
真弓は、心のどこかで、誠が、自分にだけ、何かを言ってくれることを、期待していた。
麻美にも言わない誠が、自分にだけ、特別に、何かを言ってくれる。
そんな期待を、真弓は、抱いていた。
でも、その期待は、構造的に、成立しないものだった。
誰にも何も言わない人は、誰にも、何も言わない。
例外は、ない。
真弓は、廊下の壁に、もたれかかったまま、しばらく、動けなかった。
動けないあいだ、真弓は、また、自分の期待を、捨てる作業をしていた。
第3話で、捨てた。
第6話で、捨てた。
第7話で、また、捨てた。
捨てるたびに、捨てるべきものが、どんどん、深い場所から、出てきた。
真弓の期待は、思っていたよりも、ずっと、深いところまで、根を張っていた。
弁当箱の蓋を、開けたまま、手をつけずにいる。
友人Aが、心配そうに、真弓の顔を覗き込んでいる。
翌日の昼休み、真弓は、いつものグループに、加わらなかった。
正確には、加わったが、会話には、参加しなかった。
ただ、机に弁当箱を広げて、食べていた。食べていた、というよりは、食べる動作をしていた。
友人Aが、真弓の顔を、覗き込んだ。
「真弓、大丈夫?元気ない?」
「うん、大丈夫」
「なんかあった?」
「ううん、何もない」
友人Aは、それ以上、聞かなかった。
真弓は、弁当を、食べ続けた。食べながら、ふと、昨日の会話を、思い出した。
「誠くん、麻美ちゃんに、告白したらしいよ」
友人Bの言葉が、頭の中で、再生された。
真弓は、しばらく、その言葉を、頭の中で、繰り返した。
そして、思った。
――この話、嘘だった。
でも、グループのみんなは、本当の話だと思っている。
真弓だけが、本当のことを、知っている。
真弓は、その事実を、グループのみんなに、伝えるべきかどうか、迷った。
「誠くん、告白なんてしてないって。本人に確認した」
そう言えば、噂は、訂正される。
でも、真弓は、それを言わなかった。
なぜなら、言うと、自分が、誠に直接確認したことが、バレるからだった。
誠に直接確認した、ということは、自分が、誠に対して、それなりの距離感を持っている、ということを、グループに知られることになる。
知られたら、何かが、変わってしまうような気がした。
真弓は、その「何か」が変わるのを、避けたかった。
だから、真弓は、噂を、訂正しなかった。
訂正しないことで、真弓は、噂の一部になった。
真弓は、噂を、訂正できる立場にいた。
でも、訂正しなかった。
これは、真弓の、能動的な選択だった。
能動的な選択をしたのに、真弓は、それを「仕方なかった」と、自分に説明した。
仕方なかったわけではなかった。
選んだのだった。
選んだことに、真弓自身、向き合いたくなかった。
向き合わずに、真弓は、弁当の続きを、食べた。
味は、相変わらず、よく、分からなかった。
同じ昼休み、誠は、自分の席で、ノートを開いていた。
ノートに、誠は、新しいことを書いていた。
「真弓が、噂を、聞きに来た」
「俺は、否定した」
「真弓は、信じた」
「これで、終わった」
誠は、その四行を、書いた。書いて、閉じた。
誠の中では、その出来事は、四行で完結していた。
事実を確認された。事実を答えた。相手が信じた。終了。
これが、誠にとっての、論理的な処理だった。
でも、ノートを閉じたあと、誠は、ある違和感を、覚えていた。
真弓が「ごめん」と言って、頭を下げて、通り過ぎたときの、真弓の表情。
あれは、何だったんだろう、と誠は思った。
普段の真弓なら、何かを聞いて、答えをもらったら、「そうなんだ」と、明るく笑う。「ありがとう」と、言う。
でも、昨日の真弓は、笑わなかった。
「ごめん」と言って、頭を下げて、通り過ぎた。
その「ごめん」は、何に対する「ごめん」だったんだろう。
誠は、考えた。
誠の脳内データベースで、考えうる候補を、リストアップした。
候補1:噂を聞いて、誠を疑ったことに対する「ごめん」。
候補2:プライベートな質問をしたことに対する「ごめん」。
候補3:廊下で立ち止まらせたことに対する「ごめん」。
誠の判定では、候補1の確率が、最も高かった。
誠は、そう判定して、その問題を、処理済みにした。
処理済みにしたものは、誠の中で、もう、再考されない。
でも、本当は、真弓の「ごめん」は、誠の三つの候補のどれでもなかった。
真弓の「ごめん」は、誠への失望に対する、自分への謝罪だった。
「あなたに、勝手に期待して、勝手に失望して、ごめん」
これが、真弓の「ごめん」の、本当の意味だった。
でも、誠は、その意味を、想像できなかった。
想像できなかったから、誤った候補を、正解として処理した。
誤った処理は、誠のノートの中で、十八年、訂正されなかった。
訂正されないまま、誠の中の真弓の像は、また少しずつ、本物の真弓から、離れていった。
真弓は、廊下を歩きながら、誠の言葉を、頭の中で再生した。
「徹底することが、信頼につながる」
誠の中では、たぶん、本当に、そう信じられていた。
誠は、徹底することで、自分のことを、信頼できる人間にしてきたのだろう。事実を、事実として扱う。感情で判断を歪めない。それが、誠の信頼の構造だった。
でも、真弓の中で、誠への信頼は、別のものだった。
真弓は、誠を、信頼していた。していた、と過去形で考えるのは、まだ、早い気がした。今でも、信頼している、と思いたかった。
でも、その信頼は、誠の徹底さに対する信頼ではなかった。
真弓が信頼していたのは、誠の、人間としての、温度だった。
誠は、徹底している。それは、確かだった。
でも、徹底している奥に、何か、温度のあるものが、あるはずだった。
その温度を、真弓は、信頼していた。
でも、最近、その温度が、感じられなかった。
感じられないのは、なくなったからなのか、それとも、最初から、なかったからなのか、真弓には、判別できなかった。
判別できないものを、真弓は、信頼し続けることが、できなくなっていた。
失望値、6から、7へ。
静かに、確実に、失望は、積み上がっていた。
真弓は、その輪の中にいるが、もう、何も話さない。
ただ、聞いている。
十月の終わりごろ、真弓のグループでは、また、新しい噂が、回り始めていた。
今度は、別のクラスの、別の子の噂だった。誰かが、誰かと付き合っているらしい。誰かが、誰かに、ひどいことを言ったらしい。誰かの家庭に、何かがあるらしい。
真弓は、その輪の中にいた。
でも、もう、何も話さなかった。
ただ、聞いていた。
聞きながら、真弓は、頭の中で、ある分析をしていた。
これらの噂のうち、本当なのは、何割なのか。
真弓自身、誠の噂が嘘だと知っていた。だから、他の噂も、半分くらいは、嘘なのかもしれない、と真弓は思った。
でも、グループのみんなは、すべての噂を、本当だと信じていた。
真弓は、その温度差に、初めて、気づいた。
気づいてから、真弓は、グループの一員でいることが、少しずつ、しんどくなり始めた。
でも、グループから抜けることは、できなかった。
抜けたら、真弓は、ひとりになる。
ひとりになるのは、怖かった。
誠は、ひとりでいることを、自然にしていた。
でも、真弓には、それは、できなかった。
真弓は、ひとりになるよりは、温度差を感じながらでも、グループにいるほうを、選んだ。
これは、消極的な選択だった。
消極的な選択は、自分を、少しずつ、削っていく。
真弓は、それを、自覚していなかった。
自覚しないまま、真弓は、グループの会話に、相槌を打ち続けた。
「うん、そうだよね」
「私もそう思った」
「ひどいよね」
言葉は、簡単に、出てきた。
でも、その言葉は、真弓の本当の感情とは、別のものだった。
真弓の本当の感情は、別の場所にあった。
「噂って、たぶん、半分くらいは嘘だ」
「でも、嘘だと言ったら、私が、グループから外れる」
「だから、嘘だと、言わない」
「言わないことで、私も、噂の一部になる」
「私は、噂を作る側にも、噂を信じる側にも、いる」
「これは、誠が言うところの、感情で判断を歪める、ということなのかもしれない」
真弓は、自分が、誠が忌避する状態に、ぴったり、当てはまっていることを、自覚した。
自覚したが、抜け出す方法が、分からなかった。
抜け出さなくていい、と真弓は思った。
誠の言うとおりに生きていたら、自分は、ひとりになる。
ひとりになりたくない自分は、誠の言う「感情で判断を歪める」状態を、選ぶしかない。
これが、自分の選択だった。
選択した結果、自分は、ねじれた人間になる。
ねじれた人間として、生きていく。
誠は、ねじれない人間として、生きていく。
二人は、ますます、別の場所に行く。
これが、第7話の、結論だった。
繰り返しの回数が多いほど、真実らしさは大きくなる。検証回数が少なくても、繰り返しが多ければ、真実らしさは大きくなる。これが、噂が事実として固まる仕組みだ。
でも、この計算式には、余りが出る。
余りは、「感情の居場所」だ。
真弓が誠に「告白したことあるの?」と聞いたとき、誠は、即座に「ない」と答えた。事実は、確認された。商は、出た。
でも、真弓の感情は、商の中に、入り切らなかった。
「誠が麻美に告白していなかったことに、なぜか、失望する」「自分が誠に期待していたことの輪郭を、初めて知る」「グループに、訂正情報を伝えられない」「噂を訂正しないことで、自分も噂の一部になる」「ひとりになるのが怖くて、ねじれた状態を選ぶ」
これらは、すべて、計算式の余りだった。商の中には、入らない。でも、消えない。余りとして、真弓の中に、残る。
残った余りは、夜の反芻のときに、また、再生される。再生されるたびに、真弓の中の誠の像は、本物の誠から、また少し、離れていく。
誠は、「事実を確認しろ」と言った。確認しても、真弓は、安心できなかった。確認は、商を出すだけだ。余りは、確認では、解決しない。
真弓が必要だったのは、確認ではなく、感情の居場所だった。誠は、それを、与えなかった。与え方を、知らなかった。
知らないことを、誠の罪だと、誰も言えない。でも、知らないことが、結果として、人を傷つける。知ることは、いつだって、責任を伴う。
誠は、その時間、自分の教室の席でノートを広げていた。真弓がどこにいるかを、考えていなかった。
真弓は、自分の中の誠の像が、本物の誠とは、別物になっていることを、薄く、感じていた。
でも、その「薄く感じている」というレベルだった。
はっきりと、認識しているわけではなかった。
はっきり認識したら、真弓は、自分の中の誠の像を、修正しなければならない。
修正するためには、本物の誠と、もう一度、向き合わなければならない。
向き合うのは、もう、しんどかった。
真弓は、薄い感覚のまま、それを、放置することにした。
放置されたまま、真弓の中の誠は、噂のように、固まり続けた。
固まったものは、後で、修正するのが、難しくなる。
でも、真弓は、その時点で、修正のチャンスを、能動的に、見送っていた。
誠も、同じことを、自分の中の真弓の像で、やっていた。
真弓の「ごめん」を、誤って解釈した時点で、誠の中の真弓の像も、固まり始めていた。
二人とも、相手を、自分の頭の中の噂として、抱え始めていた。
本物の相手とは、別物の像が、それぞれの頭の中で、独立して、成長していった。
これが、第7話の、二人の状態だった。
噂について、もう少し、書いておく。
噂は、悪いものではない。
人間の社会では、情報を、すべて自分で確認することは、不可能だ。だから、人は、他人の話を、ある程度、信じる。信じることで、社会が、成立している。
でも、信じすぎることで、間違った像が、頭の中に、固まる。
固まった像は、本物の人と、別物として、成長していく。
その別物の像のほうを、人は「本当のあの人」だと、思い始める。
これが、噂の最も静かで、最も恐ろしい働き方だった。
真弓は、誠を、自分の頭の中で、噂として、抱えていた。
誠は、真弓を、自分の頭の中で、データとして、抱えていた。
どちらも、本物ではなかった。
どちらも、本物だと、信じていた。
これが、すれ違いの、最も深い形だった。
あなたが、もし今、誰かのことを「こういう人だ」と思っているなら、その認識は、繰り返しによって、固まったものかもしれない。本人に確認していないことが、自分の中で「事実」になっているかもしれない。
確認することは、いつでもできる。
でも、確認しても、安心できないことがある。
それは、確認の対象が、相手の事実ではなく、自分の中の像だからだ。
自分の中の像は、相手に確認しても、修正されない。
修正できるのは、自分自身だけだ。
自分の中の誰かを、固まる前に、もう一度、ほどいてみる。
ほどいて、本物の相手と、向き合い直す。
これが、噂が固まる前に、できる、たった一つのことだ。
真弓は、これを、しなかった。
誠も、これを、しなかった。
二人は、お互いを、噂のまま、抱えて、卒業していくことになる。
あなたには、もっと早く、ほどいてほしい。
これが、真弓から、十八年後のあなたへの、四つ目のメッセージだ。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・真実錯誤効果 (Illusory Truth Effect)


