期待
机に返却用紙が伏せられている。
真弓の手が、その用紙の端を、つまんでいる。
合意していない約束に、人は裏切られる。
誰も、明確に「こうしよう」とは言っていない。書面もない。口約束もない。それなのに、約束は存在していて、しかもその約束は、片方だけが知っていることが多い。
知らないほうは、約束を破った覚えがない。知っていたほうは、約束を破られたと感じる。両者は、同じ出来事について、まったく違う記憶を持つことになる。
これが「期待」だ。
期待とは、片方の頭の中だけに存在する未来のことだ。もう片方は、そんな未来があることを、知らない。知らないのに、なぜか、約束を破ったと責められる。
世界中の関係が、これでこじれている。恋人同士、親子、友達、職場、すべてが「期待」と「合意」を取り違えて、傷つけ合っている。
真弓と誠も、その例外ではなかった。
そして、二人の最初の決定的なすれ違いは、ある一枚の紙から始まった。
その紙は、模試の結果用紙だった。
六月の上旬、模試の結果が返却された。
真弓は、結果を見ながら、ため息をついた。数学が、思ったよりも悪かった。志望校の合格判定は、Cだった。AでもBでもない、Cだった。
真弓は、その用紙を、机の上に伏せて置いた。何度も見たくなかった。
放課後、隣のクラスの誠のところに行った。誠は、いつも通り、窓際の席で、ノートに何かを書いていた。返却された模試の用紙は、誠の机の上に、見えやすいように広げられていた。
真弓は、誠の用紙を、ちらりと見た。
見ようと思って見たわけではなかった。視界に入っただけだった。
でも、見てしまった。
誠の判定は、Aだった。すべての科目が、A。総合判定もA。志望校は、真弓と同じだった。
真弓は、誠の机の前に立って、しばらく黙っていた。
誠は、視線を上げて、真弓を見た。
真弓は、誠の机の前を離れて、自分の席に戻った。
戻りながら、なぜか涙が出そうになった。
涙が出そうになる理由を、真弓は、自分でうまく説明できなかった。
誠の言葉は、間違っていなかった。データを見れば、真弓の合格率は低い。志望校を下げるのが合理的だ。それは、本当のことだった。
でも、真弓が誠に言ってほしかったのは、そういう言葉ではなかった。
「一緒に、頑張ろう」
「まだ時間はある」
「お前なら、受かる」
そういう言葉を、誠が言ってくれると、真弓は、心のどこかで、期待していた。
誠は、頭がいい。誠は、いつも自分のそばにいる。誠は、自分のことを、たぶん、大切に思ってくれている。だから、自分が落ち込んでいるときには、励ましてくれる。
これが、真弓の頭の中にあった「期待」だった。
誰とも合意していない期待だった。
誠も、知らない期待だった。
真弓は、その期待が、誠の言葉によって、粉々に砕けたと感じた。砕けたのは、誠が壊したからではなかった。砕けたのは、その期待が、最初から、片方の頭の中にしか存在していなかったからだった。
でも、真弓は、その仕組みを、まだ知らなかった。
真弓は、誠が自分を傷つけた、と感じた。
失望値、3。最初の決定的失望が、ここで起きた。
誠は、真弓が席を立つのを、視界の端で確認した。それから、ノートのページを、次に開いた。
真弓は、ペンを持っているが、何も書いていない。
窓の外で、雨の音がしている。
その夜、真弓は、自分の部屋で、進路調査票を前にしていた。
調査票には、第一志望、第二志望、第三志望を書く欄があった。
真弓は、第一志望の欄に、最初は、これまで通りの志望校を書こうとした。書こうとして、手が止まった。
誠の言葉が、頭の中で、繰り返し再生されていた。
「合格率は二十パーセントを切る」
「下げて確実に受かる学校を選ぶほうが、合理的だ」
真弓は、ペンを置いた。窓の外を見た。雨が降り始めていた。
真弓は、自分の手元を見た。爪が、いつもより短く切られていた。なぜか、爪を短く切ったあとは、勉強がはかどると思っていた。子供のころからの、些細なジンクスだった。
でも、今夜は、爪が短くなっても、何もはかどらなかった。
真弓は、もう一度、ペンを持った。
そして、第一志望の欄に、別の学校の名前を書いた。
誠が「合理的」と言うほうの、ランクの低い学校だった。
書きながら、真弓は、自分でも気づかないうちに、思っていた。
――誠が、そう言ったから。
誠が放った「合理的」という言葉が、真弓の中で、アンカーになっていた。最初に投げ込まれた数字や条件は、その後の判断のすべてを、引っ張り続ける。真弓は、自分の意思で志望校を決めたつもりだった。でも、決めた基準は、誠の言葉だった。
真弓が、自分の判断を、自分でしているように見えて、実は、誠が放ったアンカーに、未来を繋がれていた。
その仕組みを、真弓は、まだ知らなかった。
真弓は、書き終わった調査票を、机の引き出しに入れた。明日、学校に提出する。
提出すれば、もう、戻れない。
戻れないことは、真弓も、分かっていた。
同じ夜、誠は、自分の部屋で、ノートを開いていた。
放課後の、真弓とのやり取りを、誠は、思い返していた。思い返しているという自覚は、あまりなかった。ただ、ペンを動かしていると、自然と、その場面が頭に浮かんできた。
誠は、ノートに、こう書いた。
「事実を言うことが、なぜ、相手を傷つけるのか」
書いてから、誠は、しばらく、その一行を見ていた。
誠の中では、事実は、客観的に観察可能なデータだった。データには、感情はない。だから、データを伝えることで、誰かを傷つけることは、論理的にはあり得ない。
でも、放課後、真弓は、明らかに傷ついていた。
傷ついた、という事実は、誠の脳内データベースに、新しい項目として記録された。「真弓は、合格率という事実を伝えられたとき、傷ついた」。これが、観察結果だった。
誠は、この観察結果を、どのフォルダに振り分けるべきか、迷った。
「めんどくさいタイプの女子の発言」のフォルダには、入らなかった。なぜなら、これは発言ではなく、反応だったからだ。
「例外データ」のフォルダにも、入りきらなかった。例外データは、これで三件目だった。三件目になった例外データは、もう例外ではなかった。
誠は、新しいフォルダを作るかどうか、迷った。
迷った末に、誠は、新しいフォルダを作らなかった。代わりに、その観察結果を、ノートのその一行の下に、放置した。
「事実を言うことが、なぜ、相手を傷つけるのか」
その問いに、誠は、答えを書かなかった。書けなかった。
誠は、ノートを閉じた。
閉じたあとで、誠は、ふと、思った。
明日、真弓に会ったら、何を言うべきだろうか。
「言うべきこと」を、誠が考えるのは、久しぶりのことだった。普段の誠は、「言うべきこと」ではなく、「言えること」しか考えない。事実があれば、事実を言う。それで終わりだった。
でも、明日、真弓に会ったとき、事実を言うことが、また真弓を傷つけるかもしれない。
誠は、考え込んだ。
考え込んだまま、答えは出なかった。
誠は、ペンを置いて、電気を消した。
その夜、誠は、いつもより、寝つきが悪かった。寝つきが悪い、という現象も、誠にとっては、新しいデータだった。
真弓は、自分の席に戻った。
戻りながら、真弓は、心の中で、ある言葉を、何度か繰り返していた。
――期待した私が、悪かった。
その言葉を、自分に向かって繰り返すたびに、真弓の中で、何かが、少しずつ、固くなっていった。
誠に、もう、何も期待しない。
誠に、励ましを求めない。
誠に、優しさを求めない。
真弓は、そう決めた。
決めたわけではなかった。決めようとしているわけでもなかった。ただ、自然と、そうなっていた。期待をしないことは、傷つかないことだった。傷つかないことは、楽だった。
でも、楽になることと引き換えに、真弓は、誠との何かを、一つ、失った。失ったものが何だったのかは、真弓自身も、その時点では、分かっていなかった。
分かるのは、ずっと後のことだった。
同じ朝、誠も、自分の中で、何かを失っていた。
誠は、真弓が「期待した私が、悪かった」と言って席に戻ったあと、自分のノートを開いた。
昨日書いた一行の下に、新しい一行を書こうとした。書こうとして、手が止まった。
書くべき言葉が、見つからなかった。
誠は、これまで、ノートに書く言葉に困ったことがなかった。誠のノートは、いつも、観察した事実と、それに対する分析で埋まっていた。事実があれば、分析できた。分析できれば、言葉になった。
でも、今、誠は、書くべき言葉を見つけられなかった。
事実は、観察できていた。「真弓が、自分に何かを期待していた。その期待は、合理的な事実によって、裏切られた。真弓は、傷ついた」。これが、観察結果だった。
でも、その観察結果に対して、誠は、分析を加えることができなかった。
なぜ、真弓が、自分に「励まし」を期待していたのか。
なぜ、自分が、それを「言える人間」だと、真弓が思っていたのか。
その「期待」は、いつ、どこで、誰の合意のもとに、形成されたのか。
誠には、すべてが、不明だった。
不明なものを、誠は、ノートに書けなかった。
誠は、ノートを閉じた。
閉じたとき、誠は、初めて、自分のノートに「書けない何か」があることに、気づいた。
気づいたが、その意味については、まだ、深く考えなかった。
誠は、傷ついた、と認識しなかった。
でも、誠の中で、その朝、何かが、確かに、削れた。削れた何かは、目には見えなかった。痛みもなかった。ただ、削れた、という感触だけが、誠の中に、薄く、残った。
その感触の正体を、誠が言語化するのは、ずっとあとになってからだった。
誠は、自分の席で一人、ノートを広げている。
二人の机のあいだに、いつもより、少しだけ広い距離がある。
その日の昼休み、真弓は、いつものグループと弁当を食べていた。
笑っていた。普段通りに、笑っていた。
でも、笑いながら、真弓は、ふと、誠のクラスの方を見た。誠は、自分の席で、一人で弁当を食べていた。
真弓は、視線を戻した。
戻したあとで、真弓は、ある事実に気づいた。
誠の机を、自分が見たのは、昨日まで、何かを話しに行くためだった。今日、見たのは、何かを話しに行くためではなかった。ただ、見ただけだった。見て、戻った。
その違いを、真弓は、自分の中で、はっきりと感じた。
そして、思った。
――もう、誠のところには、行かないかもしれない。
その思いは、決意ではなかった。決断でもなかった。ただ、自然な、手放しだった。
真弓は、隣の席の子の冗談に、また、笑った。
笑いながら、真弓の中で、誠の存在が、少しだけ、遠くなった。
その「少しだけの遠さ」が、十八年後の二人の距離の、最初の一歩だった。
でも、最初に掛ける数字が「アンカー」になっていると、掛け算は、拡張ではなく、分岐になる。最初の数字が大きければ、結果も大きい。最初の数字が小さければ、結果も小さい。最初の数字に、後のすべての判断が、引っ張られる。
誠が真弓に言った「合格率二十パーセント」は、真弓の未来に投げ込まれたアンカーだった。真弓は、そのアンカーを基準にして、自分の未来を計算した。計算した結果、真弓は志望校を下げた。下げた選択は、真弓自身のものに見えた。でも実際は、誠が放った数字に、未来を繋がれていた。
二人は、この日、最初の決定的な分岐を経験した。同じ模試の結果用紙を見ながら、二人の未来が、別々の方向に掛け算され始めた。
分岐したことに、誠は気づかなかった。分岐したことに、真弓は気づいた。気づいたほうが、傷を負う。気づかないほうは、傷を負わない。それは、必ずしも、気づいたほうが弱いということではない。気づいたほうが、敏感だっただけだ。
敏感な側が、いつも、最初に削られる。
誠は、真弓の背中を見送りながら、しばらく、廊下に立っていた。
「それを聞かれてる時点で、もう、答える意味がないんだよ」
真弓のその言葉が、誠の中で、再生され続けていた。
意味が、分からなかった。
誠は、これまで、分からないことに対して、必ず分析を試みていた。分からないものは、調べる。調べれば、分かる。分かれば、ノートに書ける。これが、誠のやり方だった。
でも、今回、誠は、「分からない」ことに対して、調べる気が起きなかった。
調べたら、何か、嫌なことが分かるような気がした。
嫌なこと、という感覚そのものが、誠にとっては、新しいデータだった。誠の脳は、これまで、感情と事実を分けて処理していた。事実を調べることに、感情が介入したことは、なかった。
でも、今、誠は、調べたくなかった。
誠は、その感覚を、無視することにした。
無視するという選択は、誠にとっても、初めての選択だった。
初めての選択をしたことに、誠は、気づいていなかった。
誠は、自分のクラスに戻り、いつも通り、ノートを開いた。
ノートには、もう、新しい言葉は書かなかった。書く気が、起きなかった。書く気が起きないという感覚も、誠にとっては、新しいデータだった。
新しいデータが、その日、三つ、誠の中に蓄積された。
三つのデータは、どこのフォルダにも、振り分けられなかった。
振り分けられなかったまま、放置された。
放置されたものは、後年、まとめて、別のフォルダに振り分けられることになる。そのフォルダの名前を、誠は、十八年後に、つけることになる。
「真弓と、共有できなかったもの」
そのフォルダには、最終的に、三十七件のデータが、収められることになる。
期待は、片方の頭の中だけに存在する未来だ、と冒頭で書いた。
真弓は、誠に「励まし」を期待していた。誠は、その期待があることを、知らなかった。だから、真弓は、誠が約束を破ったと感じ、誠は、何も知らないままだった。
でも、もう一つ、見落としていたことがある。
誠も、真弓に、ある期待を抱いていた。
「事実を、事実として受け取ってほしい」
これが、誠の期待だった。誠は、それを期待だと思っていなかった。当たり前のことだと思っていた。当たり前のことは、誠の中では、期待ではなく、前提だった。
でも、真弓にとって、それは前提ではなかった。事実は、事実として受け取れないことがある。感情を伴うときは、特に。
誠の前提は、真弓には、共有されていなかった。
つまり、誠も、真弓に、合意していない期待をしていた。
そして、その期待は、真弓によって、無自覚に裏切られていた。
裏切られたことに、誠は、気づかなかった。
気づかないことが、誠にとっての痛みだった。痛みが見えないかたちで、誠の中に、ゆっくりと、蓄積していた。
あなたは、誰かに、合意していない期待をしていないだろうか。
「これくらい、言わなくても分かってくれるはず」
「これくらい、頼まなくてもやってくれるはず」
「これくらい、説明しなくても伝わるはず」
これらの期待は、すべて、片方の頭の中だけに存在している。もう片方は、その期待があることを、知らない。
そして、期待が裏切られたとき、片方は傷つき、もう片方は、何が起きたのか分からないまま、立ち尽くす。
真弓と誠の最初の決定的なすれ違いは、まさにそれだった。
真弓は、傷ついた。誠は、何が起きたのか分からなかった。
分からないまま、二人は、少しずつ、距離を取り始めた。
距離が開いていくことに、二人とも、気づいていた。気づいていながら、二人とも、何も言わなかった。
言葉にすると、何かが、確定してしまうような気がしたからだった。
確定しないまま、十八年が、流れることになる。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・アンカリング (Anchoring Effect)


