第4章 反芻 —— 考えれば考えるほど、答えが出ない — Portrait of Identity

反芻

RUMINATION
÷
深夜の真弓の部屋。ベッドに横になって天井を見ている。枕元のスマホの画面が暗いまま置かれている。
深夜の真弓の部屋。ベッドに横になっている。
天井を見ている。目が冴えている。
枕元のスマホの画面が、暗いまま、置かれている。

夜になると、なぜか、痛い記憶ばかり、思い出される。

布団に入って、目を閉じる。今日一日のことを、振り返ろうとする。すると、楽しかった出来事よりも、傷ついた瞬間のほうが、先に、鮮明に、戻ってくる。誰かに言われた一言。誰かの冷たい目線。自分が言ってしまった言葉。やってしまった行動。

振り返るつもりはなかった。むしろ、忘れたかった。それなのに、勝手に、頭の中で、再生される。何度も、何度も、再生される。

これが「反芻」だ。

反芻は、本来、牛が食べたものを胃から戻して、もう一度噛むことを指す。胃から食道を逆流して、口に戻ってくる。人間の脳の中で起きていることも、構造的には、同じだ。一度処理したはずの記憶が、また意識の上に戻ってくる。戻ってきた記憶を、また噛む。噛んでも、消化されない。だから、また戻ってくる。

悪循環だと、誰もが知っている。

知っていながら、止められない。なぜ止められないのか。それは、脳が、ある仕様で動いているからだ。痛い記憶ほど、思い出しやすい。思い出しやすい記憶は、重要だと判断される。重要な記憶は、また思い出される。

真弓は、その夜、その仕様の中で、もがいていた。

誠は、その夜、何も知らずに、絵を描いていた。

同じ夜、同じ街の、別々の部屋で、二人は、まったく違う時間を過ごしていた。

その差を、誠が想像できるようになるのは、ずっとあとのことだった。

· · ·

第3話の事件があった日の、夜。

真弓は、ベッドに横になっていた。眠れなかった。

目を閉じると、誠の声が、頭の中で再生された。

「志望校を変えればいい」

「合格率は二十パーセントを切る」

「合理的だ」

三つの言葉が、繰り返し、頭の中で流れた。順番が変わったり、組み合わせが変わったりしながら、何度も流れた。

真弓は、寝返りを打った。打っても、変わらなかった。

枕元のスマホを手に取った。時刻は、深夜二時を過ぎていた。明日も学校がある。寝なければいけない。分かっているのに、眠れなかった。

真弓は、スマホを置いた。置いてから、また、誠の声が再生され始めた。

今度は、誠の声に、真弓自身の声が、被さってきた。

「私が、あなたに、何を言ってほしかったかの問題」

「期待した私が、悪かった」

真弓が言った言葉も、繰り返し、再生された。

そして、真弓は、思った。

――私、あんなこと、言うつもりじゃなかった。

「期待した私が、悪かった」と言ったとき、真弓は、誠を責めていた。同時に、自分を、責めてもいた。

でも、本当は、誰のことも、責めたくなかった。

真弓が、誠に求めていたのは、「一緒に頑張ろう」という励ましだけだった。たった、それだけだった。それだけなのに、誠は、それを言わなかった。なぜ言わなかったのか、真弓は、考え続けていた。

誠は、自分のことを、嫌いなのかもしれない。

誠は、自分のことを、見下しているのかもしれない。

誠は、自分のことを、最初から、めんどくさいと思っていたのかもしれない。

そんなはずはない、と、真弓は、自分に言い聞かせた。誠は、いつも、自分のそばにいてくれた。図書室で、本のことを話した。教室で、数学を教えてくれた。何度も、自分の話を聞いてくれた。誠は、悪い人ではない。

でも、悪い人ではないからこそ、傷ついた。

悪い人なら、最初から、励ましなんて期待しなかった。誠が、そういう人ではないと、真弓は信じていた。だから、励ましを期待した。だから、裏切られたと感じた。

真弓は、もう一度、寝返りを打った。

頭の中で、誠の声が、また流れた。今度は、模試の話ではなく、図書室での会話だった。

「面白いかどうかは、お前が決めることだ」

「他に、誰が決めるんだ」

その声を聞いて、真弓は、ふと、思った。

あの時の誠は、優しかった。あの時の誠は、自分のことを、見下していなかった。あの時の誠は、自分の判断を、自分でできるように、背中を押してくれた。

同じ誠が、なぜ、模試の話のときには、あんなに冷たかったのか。

真弓は、考えた。考えても、答えは出なかった。

答えが出ないまま、頭の中で、誠の声だけが、繰り返し、再生され続けた。

真弓が眠りに落ちたのは、明け方近くだった。眠りに落ちる直前、真弓は、最後にこう思った。

――やっぱり、誠のことは、よく分からない。

分からない、という結論が、その夜、真弓の中に、深く刻まれた。

· · ·

同じ夜、誠は、自分の部屋で、ノートを広げていた。

絵を描いていた。

誠の絵は、いつも、抽象的だった。具体的な何かを描くというより、線と陰影だけで、空間を作る。誰かのために描くのではなく、自分の思考を整理するために描いていた。

その夜の絵は、いつもより、線が多かった。

線が多くなった理由を、誠は、自覚していなかった。ただ、何かを描かずにはいられなかった、という感覚だけがあった。

誠は、絵を描きながら、いくつかのことを、頭の中で処理しようとしていた。

放課後、真弓に言われた言葉。「期待した私が、悪かった」。この言葉を、誠は、どのフォルダに振り分けるべきか、まだ決めていなかった。

振り分けようとすると、いつもの分類が機能しなかった。「めんどくさいタイプの女子の発言」フォルダにも、「例外データ」フォルダにも、入らなかった。

誠は、絵に集中することで、その問題を一時的に棚上げにした。棚上げにしている、という自覚も、誠にはなかった。ただ、絵が描きたかった。

絵を描いている誠は、その夜の真弓のことを、想像しなかった。

真弓が、ベッドの中で、眠れずにいることを、誠は知らなかった。

真弓が、自分の言葉を何度も再生していることを、誠は知らなかった。

真弓が、自分との会話を、明け方まで反芻していることを、誠は知らなかった。

誠は、自分の絵を描いていた。

それだけだった。

それだけのことが、十八年後、誠にとって、最も重い記憶の一つになる。

「真弓が、ひとりで、夜を超えていたあいだ、俺は、自分のために絵を描いていた」

その事実を、誠が言葉にできるようになるのは、ずっとあとのことだった。

言葉にしたとき、誠は、自分の絵を、すべて、捨てた。

でも、それは、もっと先の話だ。

翌朝の教室。真弓はいつも通り席についているが、目の下に薄い隈がある。誰もそれに気づいていない。
翌朝の教室。真弓は、いつも通り席についている。
目の下に、薄い隈がある。眠れなかった夜の、残りの色。
誰も、それに気づいていない。

翌朝、真弓は、いつも通り教室に来た。

顔を洗って、髪を梳かして、いつも通りの制服で来た。誰も、真弓の目の下の隈には気づかなかった。気づかれないように、薄く化粧をしていたからだ。

朝のホームルームのあいだ、真弓は、机の上の教科書を見ていた。教科書の文字は、読んでいなかった。読めなかった。文字を見ているのに、頭の中では、また、誠の声が再生されていた。

「合格率は二十パーセントを切る」

もう、何回再生したか、分からなかった。

真弓は、ふと、隣の席の子の弁当箱を見た。普段の真弓なら、「今日のおかず、何?」と聞いていた。今朝は、聞かなかった。聞く気力が、なかった。

気力がない、という感覚を、真弓は、これまで、あまり経験したことがなかった。真弓は、いつも、誰かに気を遣える側だった。気を遣える、ということは、気力に余裕がある、ということだった。

でも、今朝の真弓には、それがなかった。

気力が、削れていた。

削れていたのは、誠との一件のせいだけではなかった。眠れなかった夜のせいでもあった。眠れなかった夜は、誠との一件のせいだった。だから、結局、誠との一件のせいだった。

真弓は、自分の手を、机の上に置いた。爪が、また少し伸びていた。昨日の夜、爪を切ろうと思って、切らなかった。切る気力もなかった。

真弓は、伸びた爪を、しばらく見ていた。

見ながら、思った。

――誠は、今、何をしているんだろう。

その問いは、真弓自身が望んでいない問いだった。望んでいないのに、勝手に、頭の中に浮かんできた。

真弓は、その問いを、振り払おうとした。振り払っても、また浮かんできた。

真弓は、ため息をついた。

反芻は、止められなかった。

Scene 01
休み時間 / 廊下 / 偶然のすれ違い
誠
顔色が悪いな。
真弓
真弓
そう?
誠
寝てないだろ。
真弓
真弓
少しね。
誠
何があった。
真弓
真弓
……気にしないで。
誠
気にしているから、聞いている。
真弓
真弓
真弓は、誠の顔を、しばらく見た。
真弓
真弓
昨日の夜、ずっと、あなたのこと、考えてた。
誠
なぜ。
真弓
真弓
あなたの言葉が、頭の中で、何度も再生されたから。
誠
どの言葉が。
真弓
真弓
「合理的だ」って、言葉。
誠
……そうか。
真弓
真弓
あなたは、再生されない?
誠
何が。
真弓
真弓
誰かの言葉が、頭の中で、何度も流れること。
誠
誠は、少しのあいだ、考えた。
誠
……俺は、再生されないな。
真弓
真弓
そっか。

真弓は、それだけ言って、自分の教室に戻った。

戻りながら、真弓は、思った。

誠は、再生されない。

誠の頭の中では、真弓の言葉が、何度も流れたりしない。誠は、真弓のことを、思い出さない。誠は、真弓のことを、夜のあいだ、考えたりしない。

その事実が、真弓の中で、また一つ、痛みとして刻まれた。

誠が、真弓のことを考えていない、という事実が、痛いのではなかった。

真弓だけが、誠のことを考えていた、という事実が、痛かった。

同じ時間を、同じように過ごしていない。それは、当たり前のことだった。人と人は、別々の存在だから、別々の時間を生きる。

でも、真弓は、心のどこかで、誠も自分のことを考えていてほしいと、願っていた。

願っていたという自覚は、なかった。

願いが裏切られたとき、初めて、その願いがあったことに、気づいた。

これも、期待だった。誰とも合意していない期待だった。

真弓は、また、傷ついた。

失望値、4。

· · ·

同じ時、誠も、真弓と別れたあと、しばらく廊下に立っていた。

「誰かの言葉が、頭の中で、何度も流れること」

真弓のその言葉が、誠の中で、引っかかっていた。

誠は、自分のノートを、頭の中で開いてみた。

誰かの言葉が、何度も流れる、という現象を、誠は、これまで経験したことがなかった。誠の頭の中では、情報は、入力され、処理され、フォルダに振り分けられる。一度フォルダに振り分けられた情報は、必要なときに取り出されるだけで、勝手に再生されたりはしない。

誠は、真弓に「俺は、再生されないな」と答えた。それは、事実だった。

でも、真弓に答えながら、誠は、ある違和感を抱いていた。

真弓の言葉が、頭の中で、勝手に流れ始めていた。

「あなたの言葉が、頭の中で、何度も再生されたから」

その言葉が、誠の中で、ゆっくりと、繰り返された。

誠は、それに気づいて、少し驚いた。

「再生されない」と言った直後に、再生され始めていた。

誠は、その現象を、ノートに書こうかと思った。書こうとして、やめた。

書くと、何かが、確定するような気がした。確定すると、まずいような気がした。何が「まずい」のか、誠自身、分からなかった。

誠は、廊下を歩き出した。歩きながら、真弓の言葉が、また流れた。

「私だけが、あなたのこと、考えていた」

真弓はそう言わなかった。でも、誠の頭の中で、真弓の言葉は、なぜか、そのように再構成されていた。

誠は、それを、気のせいだと思うことにした。

気のせい、と処理することで、誠は、その違和感を、棚上げにした。

棚上げにしたものは、後で、まとめて処理されることになる。

処理される日まで、それは、誠の中で、静かに、蓄積され続ける。

その夜、再び真弓の部屋。机の上に模試の結果用紙。真弓はその用紙を引き出しの奥にしまっている。
その夜、再び真弓の部屋。机の上に、模試の結果用紙。
真弓は、その用紙を、引き出しの奥に、しまった。
しまっても、頭の中では、まだ再生されている。

その夜も、真弓は、眠れなかった。

昨日と同じだった。誠の声が、頭の中で再生された。今日の昼の、誠の言葉も、追加された。

「俺は、再生されないな」

その一言が、真弓の頭の中で、何度も流れた。

真弓は、布団の中で、自分の腕を抱いた。

抱きながら、思った。

――どうして、痛い言葉ばかり、思い出すんだろう。

誠は、図書室で、優しい言葉も、たくさんかけてくれていた。「面白いかどうかは、お前が決めることだ」「今気づいたから、いい」。それらの言葉も、思い出そうと思えば、思い出せた。

でも、思い出そうとしないと、出てこなかった。

勝手に出てくるのは、痛い言葉だけだった。

真弓は、それが、不公平だと思った。

誠は、自分に、優しい言葉と、痛い言葉の両方をくれた。両方とも、確かに存在した。それなのに、自分の頭の中では、痛い言葉のほうが、優しい言葉の何倍も、再生されている。

これでは、誠が、半分しか自分のところに残らない。

痛い半分だけが、自分の記憶になる。

真弓は、布団を頭から被った。

被って、声を出さずに、泣いた。

泣きながら、真弓は、自分のことを、責めていた。優しい言葉のほうを、忘れる自分のことを、責めていた。

でも、それは、自分のせいではなかった。

痛い記憶が、思い出しやすいのは、人間の脳の仕様だった。

仕様だと知っていても、防げなかった。

仕様だと知らない真弓は、自分の弱さだと思って、自分を責め続けた。

真弓が、その仕様を知るのは、ずっとあと、誰かにそれを教えられたときだった。

教えられたとき、真弓は、十年遅かったと思った。

十年早く知っていれば、自分のことを、こんなに責めずに済んだ。

でも、十年遅くても、知らないよりは、よかった。

知ることは、いつだって、遅い。遅くても、知るほうがいい。

これが、真弓が、その夜から十年かけて、ようやく、辿り着いた結論だった。

誠の計算式 — 割り算(÷)
記憶の総量 ÷ 思い出しやすさ = 偏った再生
…余り:忘れられた優しい言葉
記憶を、割り算で考えてみる。脳には、たくさんの記憶が蓄積されている。それを、思い出しやすさで割ると、偏った再生だけが、商として残る。

痛い記憶は、思い出しやすい。だから、商の中に、たくさん残る。優しい記憶は、思い出しにくい。だから、商の中には、ほとんど残らない。

余りには、思い出されなかった言葉が、たくさん含まれている。誠が、図書室で言った優しい言葉。教室で、絵を見せてくれた瞬間。「他に、誰が決めるんだ」と背中を押してくれた声。

それらは、確かに存在した。でも、真弓の頭の中では、夜の反芻のときに、ほとんど再生されなかった。再生されたのは、痛い言葉ばかりだった。

だから真弓は、誠のことを「冷たい人」として、頭の中で固めていく。実際の誠は、冷たくなかった。でも、真弓の記憶の中の誠は、冷たかった。

記憶は、現実とは違う。記憶は、思い出しやすさによって、ねじれる。

ねじれた記憶を、人は「事実」と呼んでしまう。事実だと思い込んだものが、また、次の判断のアンカーになる。アンカーは、また、未来を分岐させる。

反芻は、過去をねじり、未来をゆがめる。
Scene 02
数日後の昼休み / 屋上
真弓
真弓
屋上、誰もいないね。
誠
いつものことだ。
真弓
真弓
あなた、いつもここで、お弁当食べてるの?
誠
教室で食べることもある。
真弓
真弓
私、よく眠れないんだ。最近。
誠
理由は。
真弓
真弓
考えごと。
誠
何の。
真弓
真弓
考えごと。
誠
……そうか。
真弓
真弓
考えれば考えるほど、答えが出ないの。
誠
考えるのを、やめればいい。
真弓
真弓
それが、できないから、考えてるの。
誠
なぜ、できない。
真弓
真弓
頭の中で、勝手に再生されるから。
誠
誠は、何も言わなかった。
誠
空を見上げた。雲が、ゆっくりと流れていた。

誠は、その昼休み、真弓の話に、ほとんど答えなかった。

答えるべき言葉が、見つからなかったからだ。

「考えるのを、やめればいい」と言ったのは、誠なりに、最善のアドバイスのつもりだった。誠の脳の中では、考えることは、自分でコントロールできるものだった。考えたくなければ、考えなければいい。それだけだった。

でも、真弓は、それができないと言った。

誠は、その「できない」が、どういう状態なのか、想像できなかった。

想像できないものについて、誠は、言葉を持たなかった。

だから、黙った。

黙ったことで、真弓は、また、傷ついた。

誠は、そのことに、気づかなかった。

気づかないまま、誠は、空の雲を見ていた。

真弓は、自分の弁当箱の蓋を、ゆっくりと閉めた。

「先に、戻るね」

真弓は、立ち上がって、屋上の出口に向かった。

誠は、振り返らなかった。

振り返らなかったことに、誠自身、深い意味は持っていなかった。ただ、雲を見ているのが、心地よかった、というだけだった。

でも、真弓にとって、振り返らない誠の背中は、また一つ、痛い記憶になった。

その夜、真弓の頭の中では、誠の振り返らない背中が、何度も、再生された。

再生されながら、真弓は、自分にこう言い聞かせた。

――誠は、もう、私のことを、見ていない。

その判断は、事実ではなかった。

でも、反芻によって、事実として、固められていった。

固められた記憶は、やがて、真弓の中で、誠の像を、上書きしていくことになる。

そして、上書きされた像は、十八年後まで、修正されないことになる。

Scene 03
同じ夜 / 真弓のベッドの中で / 独白
真弓
真弓
(誠は、もう、私のことを見ていない)
真弓
真弓
(私だけが、誠を見ていた)
真弓
真弓
(こんなの、不公平だ)
真弓
真弓
(でも、私が、勝手に見てたんだから、不公平って言うのは、違うかも)
真弓
真弓
(じゃあ、何が、つらいんだろう)
真弓
真弓
(誠が、私のことを、見ていてくれてたって、思いたかったのかも)
真弓
真弓
(でも、思いたかっただけで、本当は、見られていなかった)
真弓
真弓
(そっか)
真弓
真弓
(やっと、分かった)

誠は、その頃、絵を描き終えて、ノートを閉じていた。

真弓は、その夜、深夜三時頃に、ようやく、眠りに落ちた。

眠る直前、真弓は、決めた。

誠のことを、考えるのは、もう、やめよう。

考えても、答えは出ない。出ないことは、もう、分かった。出ないものを、考え続けるのは、自分を消耗させるだけだ。

真弓は、誠を、頭の中から、追い出す決心をした。

その決心は、その夜、確かに、効力を持った。

翌朝、真弓は、十時間ぶりに、深く眠った気がした。

でも、起きてみると、頭の中では、また、誠の声が、流れていた。

「俺は、再生されないな」

その言葉が、真弓の中で、ループしていた。

追い出したつもりだった誠が、また、いつの間にか、戻ってきていた。

真弓は、ベッドの上で、笑った。

笑いながら、思った。

――やっぱり、駄目だ。

反芻は、決心では、止められなかった。

真弓が、反芻を止める方法を見つけるのは、ずっとあとのことだった。

その方法は、誠を頭から追い出すことではなく、誠との記憶を、別のかたちで保存することだった。

でも、その方法を、真弓が知るのは、十八年後だった。

十八年のあいだ、真弓は、誠のことを、何度も、何度も、反芻し続けることになる。

反芻されるたびに、誠の像は、少しずつ、本物の誠から、離れていった。

離れていった像が、真弓の中の「誠」になった。

真弓が、十八年後に再会する誠は、その像と、ほとんど別人のはずだった。

でも、真弓は、誠と再会することは、ないだろう。

二人は、別々の場所で、別々の生活を、続けていくことになる。

真弓の中の誠だけが、真弓の頭の中で、永遠に、十七歳のままで、再生され続けることになる。

· · ·

反芻について、もう少し、書いておく。

反芻は、止められない。これは、人間の脳の仕様だ。意志の力では、勝てない。

でも、反芻が起きる仕組みを、知ることはできる。仕組みを知ると、反芻している自分のことを、責めなくて済む。

真弓は、その夜、自分のことを責めていた。優しい言葉を忘れて、痛い言葉ばかり覚えてしまう自分のことを、責めていた。

でも、それは、真弓のせいではなかった。

痛い記憶のほうが、思い出しやすい。これは、サバンナで生き残るために、人間の脳が獲得した機能だ。痛い経験を覚えていなければ、同じ危険に、また飛び込んでしまう。だから、痛い記憶は、強く残る。強く残るから、繰り返し再生される。

これは、生き残るための機能だ。

でも、現代の人間関係においては、この機能が、過剰に働く。生き残るためには必要のない痛みまで、繰り返し再生されてしまう。

仕組みを知っていても、防げない。

でも、仕組みを知っていると、自分を責めずに済む。

「これは、私の弱さじゃない。脳の仕様だ」と、自分に言える。

言えるだけで、楽になる。

反芻は止められなくても、反芻している自分への、自己嫌悪は、止められる。

これが、反芻と付き合っていく、一つの方法だ。

真弓は、これを、十年かけて、辿り着いた。

あなたが、もし今、誰かのことを、頭の中で繰り返し再生してしまっているなら、それは、あなたの弱さではない。

脳の仕様だ。

仕様だと知って、自分を責めるのを、やめてほしい。

反芻は、いつか、薄れる。

必ず、薄れる。

薄れるまでの時間、自分を責めずに、過ごしてほしい。

これが、真弓から、十八年後のあなたへの、最初のメッセージだ。

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References

この記事では、以下の概念を参考にした。

  • ・可用性ヒューリスティック (Availability Heuristic)
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