反芻
天井を見ている。目が冴えている。
枕元のスマホの画面が、暗いまま、置かれている。
夜になると、なぜか、痛い記憶ばかり、思い出される。
布団に入って、目を閉じる。今日一日のことを、振り返ろうとする。すると、楽しかった出来事よりも、傷ついた瞬間のほうが、先に、鮮明に、戻ってくる。誰かに言われた一言。誰かの冷たい目線。自分が言ってしまった言葉。やってしまった行動。
振り返るつもりはなかった。むしろ、忘れたかった。それなのに、勝手に、頭の中で、再生される。何度も、何度も、再生される。
これが「反芻」だ。
反芻は、本来、牛が食べたものを胃から戻して、もう一度噛むことを指す。胃から食道を逆流して、口に戻ってくる。人間の脳の中で起きていることも、構造的には、同じだ。一度処理したはずの記憶が、また意識の上に戻ってくる。戻ってきた記憶を、また噛む。噛んでも、消化されない。だから、また戻ってくる。
悪循環だと、誰もが知っている。
知っていながら、止められない。なぜ止められないのか。それは、脳が、ある仕様で動いているからだ。痛い記憶ほど、思い出しやすい。思い出しやすい記憶は、重要だと判断される。重要な記憶は、また思い出される。
真弓は、その夜、その仕様の中で、もがいていた。
誠は、その夜、何も知らずに、絵を描いていた。
同じ夜、同じ街の、別々の部屋で、二人は、まったく違う時間を過ごしていた。
その差を、誠が想像できるようになるのは、ずっとあとのことだった。
第3話の事件があった日の、夜。
真弓は、ベッドに横になっていた。眠れなかった。
目を閉じると、誠の声が、頭の中で再生された。
「志望校を変えればいい」
「合格率は二十パーセントを切る」
「合理的だ」
三つの言葉が、繰り返し、頭の中で流れた。順番が変わったり、組み合わせが変わったりしながら、何度も流れた。
真弓は、寝返りを打った。打っても、変わらなかった。
枕元のスマホを手に取った。時刻は、深夜二時を過ぎていた。明日も学校がある。寝なければいけない。分かっているのに、眠れなかった。
真弓は、スマホを置いた。置いてから、また、誠の声が再生され始めた。
今度は、誠の声に、真弓自身の声が、被さってきた。
「私が、あなたに、何を言ってほしかったかの問題」
「期待した私が、悪かった」
真弓が言った言葉も、繰り返し、再生された。
そして、真弓は、思った。
――私、あんなこと、言うつもりじゃなかった。
「期待した私が、悪かった」と言ったとき、真弓は、誠を責めていた。同時に、自分を、責めてもいた。
でも、本当は、誰のことも、責めたくなかった。
真弓が、誠に求めていたのは、「一緒に頑張ろう」という励ましだけだった。たった、それだけだった。それだけなのに、誠は、それを言わなかった。なぜ言わなかったのか、真弓は、考え続けていた。
誠は、自分のことを、嫌いなのかもしれない。
誠は、自分のことを、見下しているのかもしれない。
誠は、自分のことを、最初から、めんどくさいと思っていたのかもしれない。
そんなはずはない、と、真弓は、自分に言い聞かせた。誠は、いつも、自分のそばにいてくれた。図書室で、本のことを話した。教室で、数学を教えてくれた。何度も、自分の話を聞いてくれた。誠は、悪い人ではない。
でも、悪い人ではないからこそ、傷ついた。
悪い人なら、最初から、励ましなんて期待しなかった。誠が、そういう人ではないと、真弓は信じていた。だから、励ましを期待した。だから、裏切られたと感じた。
真弓は、もう一度、寝返りを打った。
頭の中で、誠の声が、また流れた。今度は、模試の話ではなく、図書室での会話だった。
「面白いかどうかは、お前が決めることだ」
「他に、誰が決めるんだ」
その声を聞いて、真弓は、ふと、思った。
あの時の誠は、優しかった。あの時の誠は、自分のことを、見下していなかった。あの時の誠は、自分の判断を、自分でできるように、背中を押してくれた。
同じ誠が、なぜ、模試の話のときには、あんなに冷たかったのか。
真弓は、考えた。考えても、答えは出なかった。
答えが出ないまま、頭の中で、誠の声だけが、繰り返し、再生され続けた。
真弓が眠りに落ちたのは、明け方近くだった。眠りに落ちる直前、真弓は、最後にこう思った。
――やっぱり、誠のことは、よく分からない。
分からない、という結論が、その夜、真弓の中に、深く刻まれた。
同じ夜、誠は、自分の部屋で、ノートを広げていた。
絵を描いていた。
誠の絵は、いつも、抽象的だった。具体的な何かを描くというより、線と陰影だけで、空間を作る。誰かのために描くのではなく、自分の思考を整理するために描いていた。
その夜の絵は、いつもより、線が多かった。
線が多くなった理由を、誠は、自覚していなかった。ただ、何かを描かずにはいられなかった、という感覚だけがあった。
誠は、絵を描きながら、いくつかのことを、頭の中で処理しようとしていた。
放課後、真弓に言われた言葉。「期待した私が、悪かった」。この言葉を、誠は、どのフォルダに振り分けるべきか、まだ決めていなかった。
振り分けようとすると、いつもの分類が機能しなかった。「めんどくさいタイプの女子の発言」フォルダにも、「例外データ」フォルダにも、入らなかった。
誠は、絵に集中することで、その問題を一時的に棚上げにした。棚上げにしている、という自覚も、誠にはなかった。ただ、絵が描きたかった。
絵を描いている誠は、その夜の真弓のことを、想像しなかった。
真弓が、ベッドの中で、眠れずにいることを、誠は知らなかった。
真弓が、自分の言葉を何度も再生していることを、誠は知らなかった。
真弓が、自分との会話を、明け方まで反芻していることを、誠は知らなかった。
誠は、自分の絵を描いていた。
それだけだった。
それだけのことが、十八年後、誠にとって、最も重い記憶の一つになる。
「真弓が、ひとりで、夜を超えていたあいだ、俺は、自分のために絵を描いていた」
その事実を、誠が言葉にできるようになるのは、ずっとあとのことだった。
言葉にしたとき、誠は、自分の絵を、すべて、捨てた。
でも、それは、もっと先の話だ。
目の下に、薄い隈がある。眠れなかった夜の、残りの色。
誰も、それに気づいていない。
翌朝、真弓は、いつも通り教室に来た。
顔を洗って、髪を梳かして、いつも通りの制服で来た。誰も、真弓の目の下の隈には気づかなかった。気づかれないように、薄く化粧をしていたからだ。
朝のホームルームのあいだ、真弓は、机の上の教科書を見ていた。教科書の文字は、読んでいなかった。読めなかった。文字を見ているのに、頭の中では、また、誠の声が再生されていた。
「合格率は二十パーセントを切る」
もう、何回再生したか、分からなかった。
真弓は、ふと、隣の席の子の弁当箱を見た。普段の真弓なら、「今日のおかず、何?」と聞いていた。今朝は、聞かなかった。聞く気力が、なかった。
気力がない、という感覚を、真弓は、これまで、あまり経験したことがなかった。真弓は、いつも、誰かに気を遣える側だった。気を遣える、ということは、気力に余裕がある、ということだった。
でも、今朝の真弓には、それがなかった。
気力が、削れていた。
削れていたのは、誠との一件のせいだけではなかった。眠れなかった夜のせいでもあった。眠れなかった夜は、誠との一件のせいだった。だから、結局、誠との一件のせいだった。
真弓は、自分の手を、机の上に置いた。爪が、また少し伸びていた。昨日の夜、爪を切ろうと思って、切らなかった。切る気力もなかった。
真弓は、伸びた爪を、しばらく見ていた。
見ながら、思った。
――誠は、今、何をしているんだろう。
その問いは、真弓自身が望んでいない問いだった。望んでいないのに、勝手に、頭の中に浮かんできた。
真弓は、その問いを、振り払おうとした。振り払っても、また浮かんできた。
真弓は、ため息をついた。
反芻は、止められなかった。
真弓は、それだけ言って、自分の教室に戻った。
戻りながら、真弓は、思った。
誠は、再生されない。
誠の頭の中では、真弓の言葉が、何度も流れたりしない。誠は、真弓のことを、思い出さない。誠は、真弓のことを、夜のあいだ、考えたりしない。
その事実が、真弓の中で、また一つ、痛みとして刻まれた。
誠が、真弓のことを考えていない、という事実が、痛いのではなかった。
真弓だけが、誠のことを考えていた、という事実が、痛かった。
同じ時間を、同じように過ごしていない。それは、当たり前のことだった。人と人は、別々の存在だから、別々の時間を生きる。
でも、真弓は、心のどこかで、誠も自分のことを考えていてほしいと、願っていた。
願っていたという自覚は、なかった。
願いが裏切られたとき、初めて、その願いがあったことに、気づいた。
これも、期待だった。誰とも合意していない期待だった。
真弓は、また、傷ついた。
失望値、4。
同じ時、誠も、真弓と別れたあと、しばらく廊下に立っていた。
「誰かの言葉が、頭の中で、何度も流れること」
真弓のその言葉が、誠の中で、引っかかっていた。
誠は、自分のノートを、頭の中で開いてみた。
誰かの言葉が、何度も流れる、という現象を、誠は、これまで経験したことがなかった。誠の頭の中では、情報は、入力され、処理され、フォルダに振り分けられる。一度フォルダに振り分けられた情報は、必要なときに取り出されるだけで、勝手に再生されたりはしない。
誠は、真弓に「俺は、再生されないな」と答えた。それは、事実だった。
でも、真弓に答えながら、誠は、ある違和感を抱いていた。
真弓の言葉が、頭の中で、勝手に流れ始めていた。
「あなたの言葉が、頭の中で、何度も再生されたから」
その言葉が、誠の中で、ゆっくりと、繰り返された。
誠は、それに気づいて、少し驚いた。
「再生されない」と言った直後に、再生され始めていた。
誠は、その現象を、ノートに書こうかと思った。書こうとして、やめた。
書くと、何かが、確定するような気がした。確定すると、まずいような気がした。何が「まずい」のか、誠自身、分からなかった。
誠は、廊下を歩き出した。歩きながら、真弓の言葉が、また流れた。
「私だけが、あなたのこと、考えていた」
真弓はそう言わなかった。でも、誠の頭の中で、真弓の言葉は、なぜか、そのように再構成されていた。
誠は、それを、気のせいだと思うことにした。
気のせい、と処理することで、誠は、その違和感を、棚上げにした。
棚上げにしたものは、後で、まとめて処理されることになる。
処理される日まで、それは、誠の中で、静かに、蓄積され続ける。
真弓は、その用紙を、引き出しの奥に、しまった。
しまっても、頭の中では、まだ再生されている。
その夜も、真弓は、眠れなかった。
昨日と同じだった。誠の声が、頭の中で再生された。今日の昼の、誠の言葉も、追加された。
「俺は、再生されないな」
その一言が、真弓の頭の中で、何度も流れた。
真弓は、布団の中で、自分の腕を抱いた。
抱きながら、思った。
――どうして、痛い言葉ばかり、思い出すんだろう。
誠は、図書室で、優しい言葉も、たくさんかけてくれていた。「面白いかどうかは、お前が決めることだ」「今気づいたから、いい」。それらの言葉も、思い出そうと思えば、思い出せた。
でも、思い出そうとしないと、出てこなかった。
勝手に出てくるのは、痛い言葉だけだった。
真弓は、それが、不公平だと思った。
誠は、自分に、優しい言葉と、痛い言葉の両方をくれた。両方とも、確かに存在した。それなのに、自分の頭の中では、痛い言葉のほうが、優しい言葉の何倍も、再生されている。
これでは、誠が、半分しか自分のところに残らない。
痛い半分だけが、自分の記憶になる。
真弓は、布団を頭から被った。
被って、声を出さずに、泣いた。
泣きながら、真弓は、自分のことを、責めていた。優しい言葉のほうを、忘れる自分のことを、責めていた。
でも、それは、自分のせいではなかった。
痛い記憶が、思い出しやすいのは、人間の脳の仕様だった。
仕様だと知っていても、防げなかった。
仕様だと知らない真弓は、自分の弱さだと思って、自分を責め続けた。
真弓が、その仕様を知るのは、ずっとあと、誰かにそれを教えられたときだった。
教えられたとき、真弓は、十年遅かったと思った。
十年早く知っていれば、自分のことを、こんなに責めずに済んだ。
でも、十年遅くても、知らないよりは、よかった。
知ることは、いつだって、遅い。遅くても、知るほうがいい。
これが、真弓が、その夜から十年かけて、ようやく、辿り着いた結論だった。
痛い記憶は、思い出しやすい。だから、商の中に、たくさん残る。優しい記憶は、思い出しにくい。だから、商の中には、ほとんど残らない。
余りには、思い出されなかった言葉が、たくさん含まれている。誠が、図書室で言った優しい言葉。教室で、絵を見せてくれた瞬間。「他に、誰が決めるんだ」と背中を押してくれた声。
それらは、確かに存在した。でも、真弓の頭の中では、夜の反芻のときに、ほとんど再生されなかった。再生されたのは、痛い言葉ばかりだった。
だから真弓は、誠のことを「冷たい人」として、頭の中で固めていく。実際の誠は、冷たくなかった。でも、真弓の記憶の中の誠は、冷たかった。
記憶は、現実とは違う。記憶は、思い出しやすさによって、ねじれる。
ねじれた記憶を、人は「事実」と呼んでしまう。事実だと思い込んだものが、また、次の判断のアンカーになる。アンカーは、また、未来を分岐させる。
反芻は、過去をねじり、未来をゆがめる。
誠は、その昼休み、真弓の話に、ほとんど答えなかった。
答えるべき言葉が、見つからなかったからだ。
「考えるのを、やめればいい」と言ったのは、誠なりに、最善のアドバイスのつもりだった。誠の脳の中では、考えることは、自分でコントロールできるものだった。考えたくなければ、考えなければいい。それだけだった。
でも、真弓は、それができないと言った。
誠は、その「できない」が、どういう状態なのか、想像できなかった。
想像できないものについて、誠は、言葉を持たなかった。
だから、黙った。
黙ったことで、真弓は、また、傷ついた。
誠は、そのことに、気づかなかった。
気づかないまま、誠は、空の雲を見ていた。
真弓は、自分の弁当箱の蓋を、ゆっくりと閉めた。
「先に、戻るね」
真弓は、立ち上がって、屋上の出口に向かった。
誠は、振り返らなかった。
振り返らなかったことに、誠自身、深い意味は持っていなかった。ただ、雲を見ているのが、心地よかった、というだけだった。
でも、真弓にとって、振り返らない誠の背中は、また一つ、痛い記憶になった。
その夜、真弓の頭の中では、誠の振り返らない背中が、何度も、再生された。
再生されながら、真弓は、自分にこう言い聞かせた。
――誠は、もう、私のことを、見ていない。
その判断は、事実ではなかった。
でも、反芻によって、事実として、固められていった。
固められた記憶は、やがて、真弓の中で、誠の像を、上書きしていくことになる。
そして、上書きされた像は、十八年後まで、修正されないことになる。
誠は、その頃、絵を描き終えて、ノートを閉じていた。
真弓は、その夜、深夜三時頃に、ようやく、眠りに落ちた。
眠る直前、真弓は、決めた。
誠のことを、考えるのは、もう、やめよう。
考えても、答えは出ない。出ないことは、もう、分かった。出ないものを、考え続けるのは、自分を消耗させるだけだ。
真弓は、誠を、頭の中から、追い出す決心をした。
その決心は、その夜、確かに、効力を持った。
翌朝、真弓は、十時間ぶりに、深く眠った気がした。
でも、起きてみると、頭の中では、また、誠の声が、流れていた。
「俺は、再生されないな」
その言葉が、真弓の中で、ループしていた。
追い出したつもりだった誠が、また、いつの間にか、戻ってきていた。
真弓は、ベッドの上で、笑った。
笑いながら、思った。
――やっぱり、駄目だ。
反芻は、決心では、止められなかった。
真弓が、反芻を止める方法を見つけるのは、ずっとあとのことだった。
その方法は、誠を頭から追い出すことではなく、誠との記憶を、別のかたちで保存することだった。
でも、その方法を、真弓が知るのは、十八年後だった。
十八年のあいだ、真弓は、誠のことを、何度も、何度も、反芻し続けることになる。
反芻されるたびに、誠の像は、少しずつ、本物の誠から、離れていった。
離れていった像が、真弓の中の「誠」になった。
真弓が、十八年後に再会する誠は、その像と、ほとんど別人のはずだった。
でも、真弓は、誠と再会することは、ないだろう。
二人は、別々の場所で、別々の生活を、続けていくことになる。
真弓の中の誠だけが、真弓の頭の中で、永遠に、十七歳のままで、再生され続けることになる。
反芻について、もう少し、書いておく。
反芻は、止められない。これは、人間の脳の仕様だ。意志の力では、勝てない。
でも、反芻が起きる仕組みを、知ることはできる。仕組みを知ると、反芻している自分のことを、責めなくて済む。
真弓は、その夜、自分のことを責めていた。優しい言葉を忘れて、痛い言葉ばかり覚えてしまう自分のことを、責めていた。
でも、それは、真弓のせいではなかった。
痛い記憶のほうが、思い出しやすい。これは、サバンナで生き残るために、人間の脳が獲得した機能だ。痛い経験を覚えていなければ、同じ危険に、また飛び込んでしまう。だから、痛い記憶は、強く残る。強く残るから、繰り返し再生される。
これは、生き残るための機能だ。
でも、現代の人間関係においては、この機能が、過剰に働く。生き残るためには必要のない痛みまで、繰り返し再生されてしまう。
仕組みを知っていても、防げない。
でも、仕組みを知っていると、自分を責めずに済む。
「これは、私の弱さじゃない。脳の仕様だ」と、自分に言える。
言えるだけで、楽になる。
反芻は止められなくても、反芻している自分への、自己嫌悪は、止められる。
これが、反芻と付き合っていく、一つの方法だ。
真弓は、これを、十年かけて、辿り着いた。
あなたが、もし今、誰かのことを、頭の中で繰り返し再生してしまっているなら、それは、あなたの弱さではない。
脳の仕様だ。
仕様だと知って、自分を責めるのを、やめてほしい。
反芻は、いつか、薄れる。
必ず、薄れる。
薄れるまでの時間、自分を責めずに、過ごしてほしい。
これが、真弓から、十八年後のあなたへの、最初のメッセージだ。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・可用性ヒューリスティック (Availability Heuristic)


