嫉妬
誠の机の前に、別のクラスの女子が立っている。
真弓は、自分の席から、その光景を、ちらりと見ている。
嫉妬は、遠い人にではなく、近い人に向かう。
ニュースで億万長者を見ても、人は嫉妬しない。スクリーンの中の有名人を見ても、嫉妬の感情は、薄い。なぜか。それは、彼らが、自分の世界の外側にいるからだ。
嫉妬が燃えるのは、自分の世界の中の、すぐ手の届く距離にいる人に対してだ。同じクラスの友達。同じ職場の同僚。同じ年齢、同じ立場、同じ背景。比較できる距離にいる相手にこそ、嫉妬は鋭く向く。
これが、人間の感情の癖だ。
不思議なのは、この癖が、合理的に見えないことだ。億万長者と自分の差のほうが、隣の友達と自分の差よりも、はるかに大きい。なのに、嫉妬は、隣の友達のほうに向かう。論理ではなく、距離が、感情を決めている。
真弓は、その夏、その癖の中に、足を踏み入れた。
足を踏み入れたとき、真弓は、自分が嫉妬しているとは、思っていなかった。
嫉妬という感情を、真弓は、これまで、自分のものとして扱ったことがなかった。
でも、それは、確かに嫉妬だった。
近い人に対する、近い距離からの、削るような嫉妬だった。
七月の上旬、期末テストの直前だった。
真弓が誠のクラスに行くと、誠の机の前に、別のクラスの女子が立っていた。
名前は、知っていた。誠と同じクラスの、麻美という子だった。
麻美は、明るい子だった。誰とでも話せる子で、誠とも、よく話していた。誠が一人で過ごしているように見えるとき、たいてい、麻美が誠の隣で、何かを話しかけていた。
麻美は、誠と中学からの友達だと、誰かが言っていた。
真弓は、その日、麻美が誠の机の前に立って、何かを真剣に話している光景を、見た。
麻美の表情が、いつもより、少し、必死だった。
誠は、麻美の話を、聞いていた。普段の誠なら、話を聞きながらも、ノートを開いていたり、ペンを動かしていたりする。でも、その時の誠は、ペンを置いて、麻美の顔を、まっすぐ見ていた。
真弓は、その光景を、自分の教室の入り口から、しばらく見ていた。
見ているうちに、胸の奥が、少しだけ、痛んだ。
痛みの正体を、真弓は、その時、言葉にできなかった。
ただ、自分の足が、誠のクラスに入るのを、ためらっていた。
真弓は、誠のクラスに入らずに、自分のクラスに戻った。
戻る途中、廊下で、自分にこう言い聞かせた。
――別に、急ぎの用じゃなかったし。
その「別に」が、嘘だということは、自分でも、分かっていた。
その日の昼休み、真弓は、いつものグループと弁当を食べていた。
食べながら、ふと、麻美の話題が出た。
「誠くんと麻美ちゃんって、付き合ってるの?」と、隣の席の子が、誰かに聞いた。
「違うらしいよ。ただの幼なじみみたいだよ」と、別の子が答えた。
「でも、いつも一緒にいるよね」
「あれは、もう、家族みたいなもんだよね」
真弓は、たまご焼きを食べながら、その会話を、聞いていた。
「家族みたいなもの」
その言葉が、真弓の中で、何かに引っかかった。
家族。誠と麻美が、家族のように、一緒にいる。
真弓は、誠と、家族のような距離にはいない。
真弓は、誠と、ときどき話す関係だった。図書室で、教室で、廊下で、ときどき会って、ときどき話す。それだけだった。麻美のように、毎日、誠の隣にいるわけではなかった。
真弓の中で、何かが、少しだけ、ねじれた。
真弓は、その「ねじれ」を、自覚しなかった。ただ、お弁当の味が、いつもより、薄く感じた。
それだけのことだった。
でも、その「それだけ」が、夜になって、真弓の中で、また、再生されることになる。
反芻の癖は、第4話から、続いていた。
真弓は、自分の机に突っ伏したまま、しばらく、動かなかった。
動かないうちに、頭の中で、誠の言葉が、また再生され始めた。
「それは、麻美のプライバシーだ」
真弓に対しては、こんな言い方は、しなかった。真弓のことは、誠は、もっと素っ気なく扱った。麻美のプライバシーは守るのに、真弓のプライバシーは、誠にとって、守る必要のないものだった。
これが、真弓の頭の中で、瞬時に組み立てられた解釈だった。
正確には、間違っていた。
誠は、真弓のプライバシーも、誰のプライバシーも、平等に扱っていた。誠は、誰に対しても、プライベートな話を、無闇に話さない人間だった。麻美のプライバシーを守るように、真弓のプライバシーも守る。それが、誠の癖だった。
でも、真弓には、それが見えなかった。
見えなかった理由は、真弓が、自分と麻美を、比較していたからだった。
麻美は、誠と毎日話す。真弓は、誠とときどき話す。麻美は、誠の中で、特別な位置にいるように見える。真弓は、誠の中で、その他の位置にいる。
この比較が、真弓の中で、勝手に行われていた。
比較した結果、真弓は、自分が「下」だと感じた。
下だと感じた瞬間、真弓の中で、嫉妬が発生した。
真弓は、その嫉妬を、嫉妬として認めることが、できなかった。
嫉妬という感情は、自分らしくないと、真弓は思っていた。真弓は、誰に対しても、優しくいたい人間だった。麻美のことも、いい子だと思っていた。麻美に嫉妬するなんて、自分の中の、汚い部分を見るようで、嫌だった。
だから、真弓は、その感情を、別の名前で呼んだ。
「悲しさ」と、真弓は、その感情を呼んだ。
悲しさなら、自分らしかった。悲しい自分は、許せた。嫉妬する自分は、許せなかった。
でも、本当は、それは、嫉妬だった。
名前を変えても、感情の中身は、変わらなかった。
変わらないまま、真弓の中で、それは、ゆっくりと、蓄積していった。
二人は、軽く挨拶を交わしている。
真弓は、その光景を、少し離れた場所から、見ている。
翌朝、真弓は、いつもより少し早く、家を出た。
理由は、自分でも、よく分からなかった。ただ、なんとなく、早く学校に行きたかった。
校門の前で、真弓は、麻美と誠が、一緒に登校してくるのを見た。
二人は、家が近所だった。それは、前から知っていた。だから、一緒に登校するのは、当たり前のことだった。
でも、その朝、真弓は、その「当たり前」が、当たり前に思えなかった。
麻美は、誠の隣を歩いていた。少しだけ、誠より前を歩いていた。誠は、麻美の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いていた。麻美が何かを言うたびに、誠は、短く相槌を打っていた。
その「短い相槌」が、真弓の中で、痛みになった。
真弓と話すとき、誠は、相槌を打たない。「そうか」とか、「分かった」とか、それだけだった。麻美と話すときの誠は、もっと、自然だった。リラックスしていた。家族と話しているような、自然さだった。
真弓は、二人が校門を通り過ぎるのを、見送った。
見送りながら、思った。
――私と話すときの誠は、家族の誠じゃない。
その認識が、真弓の中で、確定した。
確定した瞬間、真弓は、誠と自分の距離を、客観的に測ろうとした。
麻美と誠の距離。家族のような距離。
真弓と誠の距離。ときどき話す距離。
この差は、決して埋まらない、と真弓は思った。
埋まらないものを、埋めようとすることが、無駄だと、真弓は思った。
無駄なことを、しないことに決めた。
これが、真弓の、もう一つの撤退だった。
第3話で、真弓は、誠への期待を、撤退させた。
第5話で、真弓は、誠との距離を、固定させた。
固定させることで、真弓は、自分を守ろうとした。
守ろうとしたことに、真弓自身は、気づいていなかった。
気づかないまま、真弓の中で、誠の位置が、また一段、遠くなった。
失望値、5。
同じ朝、誠は、麻美と歩きながら、ふと、校門の手前にいる真弓のことを、視界の端で捉えていた。
誠は、自分の視界の中の情報を、いつも、すべて処理していた。真弓が校門の前にいる、という事実も、処理されていた。
誠の脳内では、その事実は、こう分析された。
「真弓が、いつもより早く登校している。理由は不明。普段の登校時刻と、十五分の差。校門の前で、自分たちの方を見ている。」
誠は、その分析を、ノートに書こうかと思った。書こうとして、やめた。書く場所が、ないからだった。麻美の隣を歩きながらノートを開くわけにはいかなかった。
誠は、その分析を、頭の中で、どこかのフォルダに振り分けようとした。
でも、振り分けるべきフォルダが、見つからなかった。
「真弓が、いつもと違う行動をした」という観察結果は、誠の脳内データベースに、新しい項目として、追加された。
追加されただけで、それ以上の処理は、されなかった。
誠は、麻美の話に、相槌を打ちながら、その項目のことを、すぐに忘れた。
忘れたつもりだった。
でも、その項目は、誠の脳の中で、消えてはいなかった。
消えずに、後で、別の項目と、つながることになる。
つながったとき、誠は、初めて、真弓のその朝の行動の意味を、理解する。
でも、それは、ずっとあとのことだった。
その朝、誠は、麻美と一緒に、校舎に入った。
麻美が、誠の隣で、笑った。誠も、少しだけ、口角を上げた。
その口角の動きを、真弓は、校門の前から、見ていた。
真弓は、誠が、麻美の前で笑うことができる、という事実を、また一つ、自分の中に蓄積した。
蓄積された事実は、夜の反芻のときに、再生されることになる。
反芻されるたびに、真弓の中で、誠の像は、また少しずつ、麻美のほうに引き寄せられていった。
真弓の中の誠は、もう、真弓のほうを、向いていなかった。
「真弓と麻美ちゃん、似てる」
友人の何気ない一言が、真弓の中で、また、新しい痛みになった。
似ているなら、なぜ、誠は、麻美と話すときと、自分と話すときで、態度が違うのか。
似ているなら、なぜ、誠は、麻美のプライバシーは守って、自分のプライバシーは守らないのか。
似ているなら、なぜ、誠は、麻美の前では笑って、自分の前では笑わないのか。
「似ている」という事実は、真弓の嫉妬を、軽くするどころか、増幅させた。
似ているのに、扱いが違う。
違うことの理由が、分からない。
分からないから、自分のせいだと、感じる。
真弓は、自分の何が悪いのか、考え始めた。
考えても、答えは出なかった。
答えが出ないまま、真弓は、また、夜の反芻に、入っていくことになる。
反芻のループは、第4話から、第5話に、引き継がれていた。
引き継がれたまま、真弓の中で、それは、深く、長く、続いていった。
真弓が、図書室のドアを開けた瞬間、その光景を見て、ドアを閉めた。
真弓は、図書室には、入らなかった。
七月後半のある放課後、真弓は、図書室に行こうとした。
第2話以来、真弓は、図書室で本を借りる習慣を、続けていた。誰にも勧められていない本を、自分の意思で選ぶ。それは、真弓の小さな自立だった。
その日も、新しい本を借りに、図書室に向かった。
図書室のドアを開けた。
開けた瞬間、真弓は、足を止めた。
図書室の窓際の席に、誠と麻美が、並んで座っていた。
二人は、教科書を広げて、勉強していた。誠が、麻美に、何かを教えていた。麻美が、ノートに何かを書いていた。書きながら、麻美は、誠に、何かを質問した。誠は、それに、丁寧に答えていた。
真弓は、その光景を、二秒だけ見た。
そして、ドアを閉めた。
閉めた音に、誠と麻美が、振り返ったかもしれない。でも、真弓は、その瞬間、もう、廊下を歩き出していた。
真弓は、図書室には、入らなかった。
本も、借りなかった。
その日、真弓は、自分の小さな自立を、一つ、手放した。
手放したことに、真弓自身は、気づかなかった。
図書室の中で、誠は、麻美のノートを見ながら、説明を続けていた。ドアが一瞬、開いた気がした。誰も入ってこなかった。誠は、また、ノートに視線を戻した。
ただ、図書室に行くのが、嫌になっただけだ、と思った。
でも、それは、図書室が嫌になったのではなかった。
誠と麻美が並んでいる場所が、嫌になっただけだった。
嫌になった場所を、真弓は、避け始めた。
避け始めたことで、真弓は、自分の世界を、少しずつ、狭めていった。
狭めていることに、真弓自身は、気づかなかった。
気づかないまま、真弓の世界は、誠と麻美のいない場所に、再構成されていった。
これが、嫉妬の、最も静かな働き方だった。
嫉妬は、爆発しない。叫ばない。誰も傷つけない。
嫉妬は、ただ、その人の世界を、少しずつ、狭めていく。
狭めた世界の中で、その人は、ひとりで、息を潜めて、生きていくことになる。
真弓は、その夏、そういう生き方の、最初の一歩を、踏み出していた。
比較値が大きいほど、嫉妬は強くなる。比較値が大きいということは、相手と自分の差が、大きいということだ。差が大きいほど、嫉妬は燃える。
でも、ここで重要なのは、誰と比較するかだ。
遠い他人と比較しても、嫉妬は燃えない。なぜなら、遠い他人は、自分の世界の外側にいるからだ。比較する意味がない。
真弓が嫉妬したのは、麻美が、自分と同じ世界の中にいたからだ。同じ学校、同じ年齢、誠のすぐそばにいる存在。比較できる距離にいる相手だった。だから、真弓は、麻美と自分を、知らず知らずのうちに、割り算していた。
割り算の結果、余りが出る。余りは、「自分の居場所」だった。麻美が誠の隣にいる場所には、真弓の居場所はなかった。真弓の居場所は、もっと別の場所、もっと遠い場所、誠のすぐそばではない場所にあった。
その「居場所のなさ」が、真弓には、痛かった。
痛いから、真弓は、その場所を、避けた。避けることで、痛みを減らした。減らした代わりに、真弓は、自分の世界を、少しずつ、狭めた。
嫉妬は、人を引き算する。引き算された人は、自分の世界を、自分で、狭めていく。
誰のせいでもない。誰も悪くない。ただ、距離が、近すぎただけだ。
誠は、その廊下で、しばらく動かなかった。
真弓が、図書室に来なくなった理由を、誠は、考えていた。
「本を買うことにした」という説明は、論理的には、成立していた。図書室で借りるか、自分で買うか、どちらでも、本を読むという目的は果たせる。経済的な余裕があるなら、買ったほうが、ゆっくり読める。だから、真弓の説明は、合理的だった。
でも、誠は、その説明を、信じきれなかった。
信じきれない、という感覚は、誠の脳にとって、新しい状態だった。
これまで、誠は、相手の言葉を、ほぼ額面通りに受け取っていた。嘘をつかれていれば、論理的な矛盾から、嘘を見抜く。矛盾がなければ、信じる。それが、誠のやり方だった。
でも、今、真弓の説明には、論理的な矛盾は、ない。
ないのに、信じきれない。
誠は、自分の脳の中で、何かが、ずれているのを感じた。
そのずれを、誠は、いつものように、ノートに書こうとした。書こうとして、また、やめた。
書くと、確定する。確定すると、まずい。何が「まずい」のか、相変わらず、誠は、分からなかった。
誠は、ノートを開かずに、自分の教室に戻った。
戻りながら、誠の中に、薄く、ある感情が、立ち上がっていた。
その感情の名前を、誠は、知らなかった。
知らないまま、誠は、それを、無視した。
でも、その感情は、消えなかった。
消えないまま、誠の中に、残った。
残ったその感情の名前を、誠が知るのは、ずっとあとのことだった。
知ったとき、誠は、こう書くことになる。
「真弓が図書室に来なくなった日、俺は、初めて、寂しさを覚えた。寂しさという感情の存在を、その時の俺は、知らなかった。だから、俺は、それを、ただの違和感として処理した。違和感のフォルダの中で、その感情は、十八年、保管されることになる」
嫉妬について、もう少し、書いておく。
嫉妬は、悪い感情ではない。
嫉妬は、人間が、自分の世界の中で、自分の位置を確認するための、感情の機能だ。誰かに嫉妬するということは、その誰かが、自分にとって、重要な存在だということだ。
遠い他人には、嫉妬しない。重要じゃないからだ。
近い人に嫉妬するのは、その人が、重要だからだ。
真弓が、麻美に嫉妬したのは、麻美が、真弓にとって、重要な存在だったからだ。
では、なぜ、麻美が重要だったのか。
それは、麻美が、誠の隣にいたからだ。
つまり、真弓が嫉妬したのは、本当は、麻美ではなかった。
真弓が嫉妬したのは、麻美と誠の距離だった。
その距離が、自分と誠の距離より、近かった。それが、痛かった。
嫉妬は、相手を恨むことではなく、距離を測ることだった。
距離を測ったら、どうしようもなかった。
距離は、努力で縮められるものではない。麻美は、誠と中学からの友達だった。真弓が、それを覆すことは、できなかった。
だから、真弓は、自分の世界を、狭めることで、痛みを減らした。
これは、合理的な選択だった。痛みを減らすために、自分の世界を、痛みのない範囲に、再構成する。これは、人間の感情の防衛機能の、一つだった。
でも、防衛機能には、副作用がある。
世界が狭くなる。世界が狭くなると、新しい出会いが、減る。新しい出会いが減ると、自分の像が、固定される。固定された像の中で、人は、ひとりで、生きることになる。
真弓は、十八年間、その狭い世界の中で、生きることになる。
その狭さは、誰のせいでもなかった。
嫉妬という感情の、構造が、そうさせていた。
あなたが、もし今、誰かに嫉妬しているなら、その嫉妬を、悪いものとして責めなくていい。
それは、その誰かが、あなたにとって、重要だという、証拠だ。
重要な人がいる、というのは、悪いことではない。
ただ、その重要さに、自分の世界を狭めさせない、という選択は、できる。
狭めずに、そのまま、世界を保つ。
嫉妬しながら、その人と、距離を保ちつつ、自分の世界を狭めない。
それが、嫉妬と、上手に付き合っていく、一つの方法だ。
真弓は、これを、知らなかった。
知らなかったから、世界を狭めた。
狭めた世界の中で、十八年、生きてきた。
あなたには、もっと早く、この方法を知ってほしい。
これが、真弓から、十八年後のあなたへの、二つ目のメッセージだ。
この記事では、以下の概念を参考にした。
- ・相対的剥奪 (Relative Deprivation)



